宮下奈都/遠くの声に耳を澄ませて

一つ言っておきたいことがある。この本はアマゾンで取り寄せた。村上春樹東野圭吾にばかりスペースを割いて、この本を置かない書店は怠慢だ。


【宮下奈都/遠くの声に耳を澄ませて(222P)/新潮社・2009年(090607-0610)】


内容(「BOOK」データベースより)
くすんでいた毎日が、少し色づいて回りはじめる。錆びついた缶の中に、おじいちゃんの宝物を見つけた。幼馴染の結婚式の日、泥だらけの道を走った。大好きな、ただひとりの人と、別れた。ただ、それだけのことなのに。看護婦、OL、大学生、母親。普通の人たちがひっそりと語りだす、ささやかだけど特別な物語。

旅にまつわる十二篇を収めた短篇集。
とても素晴らしかった!短篇集でもあるので内容には触れないでおこう。


       


どういう作家なのか、どういう内容なのか、甘々な恋愛話ばかりだったら嫌だな、と予備知識なしの手探りで読み始めた冒頭の『アンデスの声』。過労で倒れて入院した祖父が唐突に口にした言葉に、主人公と同じ反応をしていた。ベリカード?何? ……… あれ?ベリカードってオレ知ってるよな。ページから目を上げてしばし記憶をたどる。思い出の箱を引っかき回して探す。時間が止まる。
あ、思い出した。ベリカード集めてたじゃん、小学生のとき!お前BCLやってただろ!!


はっきり覚えていないけど、海外の日本語短波放送は十数局あったように思う。BBCやVOA(Voice Of America)、北京放送にモスクワ放送といったところがメジャーで、海外の日本人向け放送ラジオ・ジャパン、KBS韓国放送に、北朝鮮朝鮮中央放送平壌放送)も聴けたと思う。その中に南米在住の日本人向け放送「アンデスの声」もあった。
ヘッドフォンをして愛機のスイッチを入れる。ピーピーガリガリというノイズとジャミングの嵐の中を、指先に神経を集中して慎重にダイヤルを回してチューニングする。まだ東西対立の時代で、北京やモスクワからは強力な妨害電波が出ているんだ、とジャイロアンテナ搭載のクーガ2200を持っている友だちに教えられていた。そうしてノイズ混じりに微弱な日本語放送の電波をキャッチしたら、本書にもあるように番組を聴きながら受信報告書を書いていくのだ。
受信時刻、周波数、インターバル・シグナル(定時の局名コール)と番組内容(ニュース項目や流された曲名)、受信装置、内蔵/外部アンテナの有無、等を記入して、郵便局で買える国際返信切手券というのを同封して送ると、ビッグ・ベンとか万里の長城とか当地の美麗写真に局名が印刷された受信証明書「ベリカード」が送られてくるのだ。
小学高学年の頃、そんなBCLという趣味が流行った。両親ではなく祖父に頼みこんで短波の広域周波数帯をカバーするBCL用高級ラジオ-銘機SONY ICF6700-を手に入れた自分も、友だちと競うようにせっせとエア・メールを送り、教室でのベリカード自慢大会に加わった。学校が終わると走って帰って、玄関を入るより先に郵便受けをのぞいたものだ。自分宛の海外からの絵葉書を見つけたときの嬉しさが、じわじわと甦ってきた。


アンデスの声』の老夫婦は農作業に明け暮れた一日の終わりに、地球の裏側から届く電波に二人寄り添って耳を傾けていたのだ。そして土にまみれた手で書いた報告書を、未知の国エクアドルの首都に送る。ちゃんと届くのかも、船便で送られてくるベリカードがいつ家に届くのかもわからないけど、夫婦そろって心待ちにして次の日も畑に出て行く。
そうして海を渡って夫婦の家に届いたベリカードは、何度も何度も眺められて大事にされ、ある日あるとき放送を聴いていたことを証明するだけのものではなくなっていたはずだ。病床で孫娘にそのカードを譲ると言い出した祖父の優しさと、南米で投函されたカードが辿った旅路に思いを馳せると、胸が詰まった。

『遠くの声に耳を澄ませて』という本書のタイトルは他の十一篇にも共通するイメージなんだけど、静かな夜に顔をくっつけてラジオに聴き入る老夫婦の姿でもあって『アンデスの声』のサブ・タイトルとしてもふさわしい。
この短篇集はこの愛しく輝かしい掌篇で鮮やかに幕を開ける。


全十二篇、捨て作品なし。一話読み終えるたびに、深くため息をついた。格別に文章が美しいのでもなく、ストーリーが起伏に富むのでもない。ただ、丁寧に、大事に大事に書かれている。丁寧に語られる言葉は、人をしゃんとさせる。少し背筋を伸ばして、顔を上げて、まっすぐ前を向かせてくれる。
旅をモチーフにした連作集でもあるのだけど道中記ではない。旅立つ者、とり残される者、戻ってくる者。何気ない日常の中に、ふと立ち上る追想とともに記憶を旅しながら、現在の旅を一歩踏み出す物語がつまっている。思い思われを重ね、繰り返すうちにぽつぽつと点された灯りが、本当の物語はここから始まるんだよ、とスタートラインを柔らかに照らし出す。
また、登場人物を追って読者の記憶と想像力も試されるつくりになっていて(これは著者の意図かどうかはわからないけれど)、この人が誰だったかと考えながら文字を追ううちに物語は豊かさを増していき、いつしか自分の旅も重ね合わせているという楽しさもある。


当たり前のことを当たり前のように伝えるのは、案外難しい。目に見えない、形のないものを表現しようとするときに、奇を衒わず策を弄しないで書こうとするのは勇気のいることでもある。ストレートとも自然体というのとも違う、この語りで創り出された空間だからこそ見える奇跡のようなものの微かな瞬きをいくつも見つけて晴れやかな気持ちになった。スピードとネットの時代であっても、奇跡は必ずしも華々しくスパークするものばかりではないのだ。


読んでいると、男も女も関係なく親近感を感じる。
小学生時代にベリカード集めに熱中した仲間たちはどうしているだろう。多分もう会うこともない彼らの中に、まだオレはいるだろうか(もはやオオカミ族の身となってしまったオレではあるが←『山月記』風に)。 今つきあいのある人たちの記憶の中にはせめて笑顔でとどめておいてもらえるように、明日を過ごしてみよう。年がいもなくそんな気にもさせられた。


甲乙つけがたい十二篇、人気投票をしたら、どの話が一位になるだろう。あえて自分が一話だけ選ぶとしたら『クックブックの五日間』か『白い足袋』か、難しい!好きな登場人物は[土鍋で飯を炊く女]。彼女が嫌でさえなかったら、オオカミ族に迎えてもいいと思うのだが、どうだろうか。←誰に聞いてんだよ(笑)

急いで読むのはもったいないと、もう一冊と併読した。毎日一話(一章)ずつ、交互にゆっくり読んでもいいなと思っていたのに、やっぱりついつい次の話に手が伸びてしまうのだった。
もう一冊もこれまた素敵な本で、しかもオオカミ本なのだ!(厳密にはオオカミ犬なのだが)ジャンルは違うけれど全然干渉するところがない、それどころかどこかしら似た雰囲気さえあって、今週は楽しい読書タイムを持てている。

そのもう一冊のことは週末までには書けると思う。



2009.06.11《追記》
サッカーファンにとってエクアドルというと、昨年のクラブ・ワールドカップに南米チャンピオンとして来日してマンUと決勝を戦ったチーム、その名も「キト」が記憶に新しい。
11日の新聞にワールドカップ南米予選の記事が載っていた。「エクアドルがアルゼンチンを撃破!」…でもこれは珍しいことではないのである。エクアドルのホーム・スタジアムは標高2,850メートルの高地。酸欠状態に陥って早々に走れなくなるアウェー・チームを尻目にエクアドルの選手が躍動する、南米予選ならではの試合なのだ。
確か南米協会には以前からブラジル、アルゼンチン等の国々が高地での試合開催は命の危険が伴うとして、キトでの試合を禁止するよう申し入れていたと思う。でも、エクアドル人にとっては普通のことなので進展がないらしい。
メッシでさえ「精彩を欠いた」と書かれている。本大会になれば必ず優勝候補に挙がる強国をも沈黙させる、究極のホーム・チーム・アドバンテージ! 面白いものだ。