星野智幸/虹とクロエの物語

星野智幸/虹とクロエの物語(184P)/河出書房新社・2006年(090709-0711)】


虹子と黒衣(クロエ)はボールを蹴り合うことで心を通じ合う子供の頃からの親友だった。二人だけの「合宿」で長崎県沖の孤島を訪れて「ユウジ」に出会って以来、互いに距離を置いて二十年が過ぎた。四十歳を過ぎて再会した二人は…


          


この小説もサッカーがモチーフ。なぜ女性なのか、なぜサッカーというチーム・スポーツを拒んでただの「蹴りっこ」に終わるのか、というもどかしさは置いておいて。周りに同調しない当事者たちと、少し離れたところにいる寓話の語り部的存在の配置など、星野作品らしい人物構成によって二人の女性のそれぞれの目線で四十年が描かれる。
今回の主人公は女性ではあるけれど、社会に同化できないことの自虐は『砂の惑星』『ロンリー・ハーツ・キラー』の登場人物たちと同様で、もう若くはないことの現実的な疲労感がそれぞれの独白をより苦々しい実感を伴ったものにしている。

会っていなかった約二十年間のうちに、私はすっかり、そのあたりにうようよしている凡庸でくすんだ群れの一員になってしまった。誰もがしていることを真似していれば、市井の民のささやかだけれどかけがえのない生を実現していると見なされ、形式の枠を優先するあまり自分を殺した罪を問われることもなく、本当の自分なんてなくていいんだよ、と慰めてもらえる社会に加盟してしまった。


若い頃から社会に背を向けて中年になるまで生き延びてしまった二人。かつての親友ではあっても、二十年という短くない年月を互いを不在なままで過ぎてみれば、それぞれに背負い込んだものがあって、再開後も以前のようにボールを蹴り合えないのは、むしろ自然なことに思える。若い頃なら大多数に順応しようとしない「意志」も、夢や可能性が狭まった年代の「大人ごっこ」の中では薄まった個性になるのも仕方のないことだろう。
二十年の互いの空白を経て再会する気恥ずかしさはよく書けていたと思う。虹子は余生と考え、クロエはリスタートと信じるその温度差は、しかし、同窓会の席では誰しも少なからず抱く感慨だろう。
かつてのようには触れあえないにしても、そこにある自分の戸惑いや相手のぎこちない態度は、遠慮や葛藤も含めてまぎれもなく今そこにあってこその実感であるはずなのだが。


虹子は自分が悪い手本になるのを怖れて子供を手放し、クロエは胎内に(おそらくユウジの)生命を宿していることを認めないままだ。ユウジは、自分の代で一族を終わらせるために無人島での幽閉された生活を選んだ。
なぜ、星野氏の作品には積極的に家庭を持とうとする人物が少ないのか?子育てとか教育問題とかが絡んでくると、小説のテイストがガラリ変わってしまうんだろうけど…。
連続性を遮断すること、アウトサイダーとして生きて自分だけで終わらせることへのこだわりは星野作品の魅力の一部ではあるけれど、これまでと違ってこの作品では母親になる年代の女性が、無理やり子供を(子供の個性をも)否定しようとするところに、やや違和感を感じてしまった。星野氏が描いてきた人物像が人生の中盤から終盤にさしかかるときに直面する壁のようなものが見えてしまうのだ。

干物や岩でなくてもかまわない、人間以外の何者かであれば何でも良かった。それほど、私もユウジも人間をやめたかった。死にたいのではない、人間を自称する者たちが今実現している定食のような生き方とは、まるで違うあり方を見つけたかったのだ。


家庭を持たない、職業も含めて社会に参画しない「こちら側」に立ってしまった者たちは決して連帯することはない。それぞれがそれぞれの細いパイプで限定的な接点を持つだけだ。そこに「あちら側」への逆差別はないか?食うのに困るわけでもなく、「あちら側」と同じようなそこそこ豊かな文化的生活を享受してもいながら、勝手に壁をつくってないか?
そこのジレンマをもっと書いてほしい。これはこれで、かつてなかった新しい世代ではあるはずだ。そんな人々の新たな希望を見せてくれるような作品を、星野さんには書いてもらいたい。