寮美千子/ノスタルギガンテス

久しぶりに寄った古本屋で見つけることができた。なんてタイムリーな!


寮美千子/ノスタルギガンテス(218P)/パロル舎・1993年(090802-0804】


内容(「MARC」データベースより)
生成する廃墟、世界の裂け目、あらゆる名づけ得ぬ廃墟。ノスタルギガンテスと呼ばれはじめた公園の木、そのまわりに着々と集まりはじめる様々なものがまきおこす、不可思議な現象を少年の視点から描く。

               


奥付を見て十六年も前の作品と知って驚いた。内容に古臭さがないのはもちろんだが、読んだばかりの『夢見る水の王国』に書かれていたことがすでにこの作品で語られていたからだ。たとえば、名前を失うこと、名付けることの意味。時と季節の流れの見つめ方。それに、水のイメージ。まさにそのまんまの決定的な一文があった。

 深い暗闇をゆっくりと巡る地下水は、あの木の透き通るような細かい根を浸しているだろう。
 突然、わかった。世界は、夢見る水なんだ。

それから琥珀や化石、水晶や鏡といった素敵な小道具たちの用い方も、寮美千子ワールド。ただし、この作品はファンタジーではない。

思春期にさしかかった少年が、近くの公園内にある〈隠れ家の木〉に金属とガラスで作った「メカザウルス」を隠す。少年にとってその木は〈神殿〉になった。友達も真似をして木の梢にオモチャを括りつけたのが発端となって、その木はどんどんガラクタたち(キップル)で装飾されていく。ゴミの不法廃棄か、それとも無秩序な超芸術なのか。木をめぐって事態は思わぬ展開を見せ、少年は当惑しながらも巻き込まれていく…


主人公「僕」の一人称で語られる寓話的な物語。少年の幻視と夢の光景が随所に挿入されるので非現実世界を描いているようにも読めるが、新興団地に越してきた一人っ子という設定を考えると、この男児が空想がちな子だったことに不思議はない。自分の住む新しいマンションや公園が模型のように見え、廃墟のようにも思えてしまう少年の目には、森を整備して「森の公園」にしてしまう大人たちがどう映っていただろう。
すべてが作りものに感じられる環境で唯一少年が心安らげる場所が樹齢250年の古木だった。

メカザウルスを高い梢にまとった木が、少年には神殿に映る。だが、友達には馬鹿にされてしまう。自分に見えるものが他人には見えない。大人になるにつれて何を見ても同じ感想を漏らすようになるのを人は成長だと呼ぶけれど、少年時代に基準を置けば「見えなくなっている」のだ。
少年にとって神聖だった場所が、ひとたび名付けられ意味付けされると、彼とはまったく関わりのない世界に変貌してしまう。彼には親しんだその古木が廃墟と化していくようにしか見えないのだった。


新しい夏を迎えても「神殿」を奪われた少年の心は弾まない。子供時代、毎年いつも新しい夏の訪れに胸をときめかせていたはずが、いつもと同じ夏だと感じられてしまう。それはある意味で年を重ね、ひと夏を過ぎて少年が一歩大人に近づいたということかもしれないけれど、しかしまだ幼い少年にそんな苦い喪失感を味わわせたのは何だったか。
翻弄されたのは古木も同じだ。伐採を中止して木に与えられた生き残る道が「ノスタルギガンテス」としての役割だった。


誰もが子供時代に夢想した「自分だけの王国」が大人の手で掘り返されて作り変えられてしまうことへの無力感。圧倒的に非力で説明する言葉も持たない少年の戸惑いや葛藤が軸になっているのだけれど、親や地域行政、それと芸術関係者の滑稽さもつぶさに語られていく。
これは、少年の成長をおそろしく遠回しにわかりにくく書いた小説なのかもしれない。もちろん、わざと。
徹底して子供目線で世界を見る。口にするのは簡単だけど、難しいはず。その作業の中で、子供が失ったように見えて実は大人が無自覚に失くしつつあるものを著者は描き出す。


何かを失いながら、人は大人になっていく。そうして大人になった人が、また次の子供から何かを奪う。与えているつもりが、実は奪っているのだ。そんな皮肉な世代交代が繰り返されていけば、いつの日か子供の無限の鉱脈も尽きてしまうのではないか?
同じだけの可能性を持って子供は生まれてくる。夢を見るのは子供の才能であり特権だ。その可能性の芽を今の社会は早々と刈りすぎてやしないか?目の前の材料から創造する力が子供にはあるのに、大人は安心で無害な既製品を、名前と意味で守られたものを押しつけすぎだ。そう読めば、これは一人の少年の話なのではなく、木の運命と大人の使命の話なのだと思えてならない。
1993年当時より今の方が、よりぴったり当てはまるような気がする。