P.G.ウッドハウス/でかした、ジーヴス!

一冊でけっこうお腹いっぱいになった『比類なきジーヴス』以来続刊はスルーしていた〈ウッドハウス・コレクション〉。書店でズラリ並んだシリーズを見て、こんなに出てたのにビックリ!「これ全部持ってるヤツいないだろうな…」と好からぬ妄想が暗雲のごとくに湧いてきて、シリーズ物を集めたくなる物フェチに火がついてしまった、と言ってわかってもらえればだが。


P.G.ウッドハウス/でかした、ジーヴス!(399P)/国書刊行会・2006年(090815-0819】
Very Good,Jeeves! by P.G.Wodehouse
訳:森村たまき


内容(「BOOK」データベースより)
情け知らずのアガサとダリアの両オバさんをはじめ、恥知らずの悪友シッピー・タッピー・ビンゴや怖いもの知らずの悪童トーマスらの猛攻をまえに、またもやピンチにおちいる世間知らず若旦那バーティー。あいも変わらぬ奇人怪人たちが勢揃いした、奇想天外なジーヴス・ワールド全11編。

↑このとおりのジーヴス万歳!な短篇集。シリーズの三冊目でこれ以後に刊行されたのは長篇らしい。

          
        


「ウースター一族のごくつぶし」憎めない若旦那バーティが首を突っこんだ厄介事(たいがい自らが蒔いた種)を彼の執事ジーヴスが手際良く解決していく。アガサ叔母さんにばれないうちにこっそりもみ消そうとするから余計に面倒な事態になるのだが、ジーヴス頼みで万事OKの黄金・必殺のワンパターンがこれでもかと続く。

ジーヴスの機智と機転にも感心させられるが、よくも毎回これだけのお家騒動を考えつくものだと感心。よしんばジーヴスが解決できなかったところで、バーティがアガサ叔母に手ひどくとっちめられるだけのことなんだけど。結局事件(ともいえない)に発展する前にジーヴスが鎮火してしまうので、結局何も起こらないし変わらないのだ。それがわかっていながらページをめくらせるのは、たいしたことない問題を重大に見せかける優れた心理描写にある。火のないところに煙を立たせ、無風の湖面を波立たせる人物設定の巧みさにある。ジーヴス云うところの「個々人のサイコロジー」だ。

 「ジーヴス」僕はいくぶん手厳しく言った。「僕が計画とか構想とか行動計画とかを提案するたびに、いつだって君はいやらしい調子で〈しかしながら、ご主人様〉とか言ってよこす傾向が余りに強すぎるんだ。僕はそれが気に入らない。そういう性向は抑制してもらいたい」
 「しかしながら、ご主人様―」
 「ジーヴス!」


ジーヴスが無条件に主人の言葉に従っているのでもないのが、また可笑しい。「はい、ご主人様」の返事一つにも、時に気が乗らない、うんざりした調子や呆れた様子をあらわにして不機嫌を隠さない。命令をそつなくこなしながら、実は自分の考えや楽しみを曲げないで最後にはちゃっかり自分の画策どおりに気に入らない花瓶を割ったりクリスマスのモンテカルロ行きを認めさせてしまう。
またバ-ティもたかが使用人に毎度救われっぱなしと見なされることへの反発もあって自ら策をひねり出してジーヴスのアイデアを却下することもある。それでますます事態が面倒なことになって結局ジーヴスの出番ということになるのだが、そのときには彼は主人に内緒で先に手を打っていて、もうほとんど決着はついているのである。
基本的にバ-ティはお人好しで無害無邪気なお調子者で憎めない男だ。と書けば、彼にとって頭の上がらない親族でありながら天敵で諸悪の根源であるかのようなアガサ叔母さんもダリア叔母も、けして陰険偏屈な堅物ではなく、彼を叱責するときのおよそ上流階級にあるまじき口を極めた下品な物言いもお茶目に聞こえて、端から見れば十分同じ一族の人間であることが読み取れるのだ。

ここに階級差を曖昧な幻想に描いてしまう『やんごとなき読者』との大きな違いがある。同じ人間でありながら、どこで生まれたかで決まる身分差は英国社会に厳然と存在する。ぼんくらと明晰の差など考慮されないが、その交錯の場で一時的に起こる逆転現象が痛快であればあるほど揺るがない前提の強固さを思い出させる。ほとんどの人々が属するところから遠い目で眺めやるしかない場所でプラクティカル・ジョークを生きがいにしているこの主人公は、読書に目覚めた女王のぼんやりした姿よりはるかに想像上の近いところにいる。

 「つまり君は、この偉大な、この素晴らしい、この驚くべき構想を、さかなによって脳にもたらされる刺激まったくなしで考えついたと、そういうことか?」
 「はい、ご主人様」
 「君は唯一無類だ、ジーヴス!」


これを訳すのは楽しいだろうが大変な作業だと思う。
幸いにして日本語ではジーヴスの台詞は敬語・謙譲語に直されているから主従が判り易く簡単に読み進められるけれど、英原文ではどのように書かれているのだろう。'Yes,Sir' があるか無いかだけで主従は確定するんだろうか? 話自体は実はどうでもよくて、バーティとジーヴスの軽妙な会話がこの作品の生命線であるから、リズムを損なわない文体で翻訳を実現するのは大変な労力だったと想像する。
通訳者に必要な語学力を「原文で小説を楽しめるだけの語学力が必要。もちろん日本語小説も存分に楽しめなければいけない」と米原真理さんは書いていたけれど、この翻訳者・森村たまきさんもそれだけの語学力と知識とがあるのだろう。それに、ユーモアのセンスも。原文に忠実であるかどうかは自分に知る由もないけれど、こだわりの言葉で楽しい訳で読ませてもらえることに感謝したい。


昨日の夕刊に海外トピックとして「ロンドンの百貨店で例年より早いクリスマス商戦が始まった」ことが伝えられていた。ハロッズの玩具コーナーと思しき写真が添えられているのだが、写っている店員のエプロンにこんな言葉が書いてある。「ho bloody ho!」 この「ho」は、あのホーなのか?『よしきた、ホー!』のホーなんだろうか?
何度も登場するバーティのこの決め台詞も訳者のセンスなんだろうな。文春版ではどうなっているのか、立ち読みしてこようと思っている(笑)
これは読書と言ってもいいのかなぁ、とうっすらとした疑問を持ちつつ、『ウースター家の掟』を読み始めている。全巻制覇は遠い…



※第一話《ジーヴスと迫りくる運命》に、卵を守ろうと殺気だった白鳥に襲われてバーティがレンガを投げつけてしまう場面がある。英国では野生のものも含めたすべての白鳥は女王の所有物とされており保護されている。白鳥を傷つけたり殺してしまった場合には不敬・反逆罪として処罰される(らしい)。… といっても、このジーヴスものは1930年頃、ジョージ五世の時代なので、お咎めはなかった?