リー・ツンシン/ 毛沢東のバレエダンサー

【リー・ツンシン/ 毛沢東のバレエダンサー (351P)/徳間書店 ・2009年(090829-0904)】
Mao's Last Danser by Li Cunxin 2003
訳:井上実


内容紹介
貧しい農村出身の少年・李存信は踊る、毛主席のため、家族のために。だが、運命は思わぬ変転をみせ、彼を祖国から引き離す―。バレエダンサーとして成功しアメリカへ亡命するまでを描いたベストセラー実話。

        
        


バレエといえばシルヴィ・ギエムベジャールの映画ぐらいしか知らないけれど、中国人がクラシック・バレエ?とタイトルに惹かれて読んだ。原題は“Mao's Last Dancer”、毛沢東の時代の最後の踊り手という意味である。


三部から成るのだが、山東省の農村での少年時代の一部と北京の舞踊学院でバレエの英才教育を受ける二部までで270ページ。三部でも留学中にアメリカに亡命することになる経緯が主で、バレエダンサーの話というよりは、国家に翻弄された人の話という感じ。幾つかのコンクールで受賞したことは書かれているけれども、彼がどんなダンサーでどのプログラムが得意でダンスで何を表現しようとしているのかはついに語られずに終わってしまう。別にバレエ界の有名ダンサーのことを知りたいわけでもないが、もう少しバレエそのものについて知ることができる本だったら良かったのに…。残念ながら「西欧の王子を王子らしく演じた」程度でバレエ芸術に触れたページは1ページもなかった。


大躍進政策文化大革命期の中国の農村での暮らしがいかに貧しく苦しかったのかが一部で語られる。ほとんど干し芋が主食のような生活でわずかな肉が配給されるのは月に一、二度。両親と七人の子供たちでそれを分け合ってしのぐ。
ただ、貧しいというのなら戦中〜戦後の世界中の多くの地域でそうだったはずで、社会主義国家建国後の混乱と種類は違えど、廃墟から復興しようとする国々にも貧しい(というか全てを失い何も無い)人々が溢れていた時代のことだ。
自分の家よりもっと貧しい家庭がたくさんあって餓死する人も少なくなかったことを記す客観があるのは、著者が男ばかりの七人兄弟で六番めの子供だったからかもしれない。働きづめの両親を助けながら紅衛兵でもある長男と次男は、一生農家として生きることへの絶望感をたびたび口にしていて、幼い六男は彼らに比べれば自由だったように思える。


農家の子供は学校に行っても勉強なんて何の役にも立たないと思っている。卒業すれば親の仕事を手伝い人民公社で働く以外にないのだ。
そんな彼に意外な道が待っていた。国家政策の一環として文化部の江青女史の肝いりで創設された北京舞踊学院への選抜試験に参加することになったのだ。といっても彼にバレエの素養があったわけではなく、比較的他の子供より運動能力に優れ、身体の柔軟性があると見込まれただけだったのだが。もっとも重要なことは「三つの階級」(農業・労働者・兵士)の子供であり、知識階級や富裕層が先祖にいないことが重要な条件だった。
多分、日本でも本場ヨーロッパでもそうだと思うのだが、バレエを本格的に習うのなら幼少期からレッスンを受けるのが王道だろう。だが、ツンシンが始めたのは十一歳、それも始めはそう熱心な生徒でもなかった。
舞踊学院ではバレエとともに京劇、雑技の授業もあったというのが中国らしい。バレエの中に中国武術の動きなども取り入れた中国独自の革新的な舞踊こそが世界最高の舞踊であるはずだと教えられるのだった。


全体を通してみれば、長男に生まれなかったことに始まって、この人は運が良かったんだな、という冷めた印象しか残らない。
激動期の貧しい中国に生まれて国家政策の一環としてのバレエを習うために親元を離れ、十代のほとんどを(自ら望んだわけではない)国家機関で恵まれた生活をし、いわば文化的兵士として生きる使命を課せられながらも結局その国からも出た。農家に生まれ農家で死んでいく大半に比べてこの人生が格別ドラマチックだというのはアメリカ的な短絡だ(映画化されるらしいが)。
短期留学先のアメリカで現地女性と結婚して亡命する。当時の中国人が西側の自由主義に新鮮な驚きを感じ、自分が共産主義思想に欺かれていたのではないかという疑問を持つのはわかるけれど、それでも家族に連絡も相談もなしにあっさり亡命を決めて自ら帰国の道を閉ざす。それは人生を賭けた大きな決断だったのだろうけど、それを許される境遇にあったことへの客観が彼にはない。毛沢東への盲目的な崇拝があったからこそ彼はそんな世界があることすら知らなかったバレエの道に進むことができ、それが西側世界への入り口にもなったはずなのだ。

第二次大戦中、アメリカはユダヤ人音楽家の亡命受け入れ先として多くの才能を救った。ユダヤ人のみならずドイツ人科学者も集めていたのは皆川博子さんの作品中にもあった。才能を手っ取り早く集めようとするアメリカは亡命希望者には都合の良い国でもある。
本当にバレエでの成功を目指すならアメリカではなくヨーロッパの都市を選ぶはずだが、著者にそんな雰囲気は微塵もない。だからこの本には芸術家である以前に中国人の人生であることばかりが強調されていて、大味な印象が強いのだ。
共産圏出身者が西側に移り住んで書くこの手の話は、やはりどう読んでも公平さを欠いたものに感じられてしまう。少なくとも思想や生き方を強制させられることはないのだから、やっぱり自由主義国は良いよね、と単純な二択に考えられるほどに自分は若くない。共産主義だろうとどんな主義だろうと、国家思想が個人の人生を決定していた時代があったことの曖昧な記憶を後から意味づけ言語化しようとするのは安易にするべきではないと思う。

やっぱり、どうせバレエの話を読むのならヨーロッパの話を読むべきだった。