レイ・ブラッドベリ/ さよなら僕の夏

レイ・ブラッドベリ/ さよなら僕の夏 (246P)/晶文社・2007年(090914-0918)】
FAREWELL SUMMER by Ray Bradburry 2007
訳:北川克彦


おかえり、ダグラス。永遠の名作『たんぽぽのお酒』で描かれた、あの夏の日がよみがえる。新しい物語は一年後、夏の終わりに始まる。人生との和解を学び始めた少年の心の揺らぎを鮮やかに描いた、名匠ブラッドベリによる少年文学の最高傑作。
(『たんぽぽのお酒』から五十年、87歳のブラッドベリが2007年に発表した続篇)



        


『たんぽぽのお酒』の夏から少し成長して14歳になろうとするダグラスは大人たち、特に老人への反感を持ち始め、仲間たちと軍隊を結成する(といっても武装集団などではなく、遊びの延長なのだが)。敵は自分たちを成長させようとする教育委員会のお偉方。夏という素晴らしい季節が終わってしまうのは彼らが学校再開のスケジュールを早めたからであり、自分たちは彼らが作った枠に押し込められているのだから。
ダグたちは郡庁舎でチェスに興じる委員の老人たちから駒を奪い、庁舎の大時計を襲撃する。それは永遠に夏の少年のままでいたいと願うダグラスの、失われて行く時間への抵抗だった。


思春期の入り口で反抗心が芽生えた主人公像は、12歳の生を謳歌した前作とは少し様子が違う。もやもやとした鬱屈とヒリヒリする傷みとわけが分からない性急さがあって、相変わらずの抒情的な描写ながらも痛々しさを感じた。
読み始めて、あの夏のまま終わりにしてくれれば良かったのに…と、正直思った。前作では年長者への子供らしい謙虚な姿勢が全編に貫かれていて暖かい気持ちになれたのに、本作のダグラスはそこらの生意気なガキと変わりがないじゃないかと。


だけど後半、様相が変わってくる。生よりも老いること、死ぬことへと焦点が移動していくのだ。
ダグラスが憎んでいた年老いた教委の重鎮・クォーターメインに対する感情の変化が鮮やかな手法で描かれて、またもやブラッドベリの魔法の力を思い知らされる。相手の目の中から互いに自分を見つめることで老いた自分、若かりし日の自分を互いに見つけて、互いに寛容になっていくのだ。
年寄りは昔からずっと年寄りであって若かったことなどない、という老人に対する子供の見方は『たんぽぽのお酒』でも書かれていたが、それは子供はずっと子供のままでいるのが許されるという甘えの裏返しでもあった。子供と老人は違う生き物なのだと無邪気に思い込んでいたダグラスは、老クォーターメインの中に自分の老いた姿を認め、ぎこちない仕草で、だけど自然に和解を果たす。自分も成長し、それはやがて老いていくことであることを、彼は初めて受け入れる。その素直さは、まさにダグラスそのもので安心させられた。

あんたの容貌、あんたの若さ。それは次にまわすのだよ。やってしまうのさ。ほんのしばらくの間わしらに貸し与えられているものなのだからな。それを使ったら、泣いたりせずに手放すのだ。そいつはとてもしゃれたリレー競走で、どこに向かうかはだれも知らんのだ。


これは『たんぽぽのお酒』の二年後を描いた物語なんだけれども、クォーターメイン老人が数十年後のダグラスの姿もイメージさせて、描かれた時間よりももっと遥かに長い人生を凝縮してみせた物語でもある。
老境のブラッドベリが書いたのだから、より生々しい実感がこもっているのはむしろクォーターメインのメッセージの方で、若さゆえの醜さが目立つ主人公を食ってしまっている。
死の影が近づいてはいても、けして夏は少年だけの特権なのではない。繰り返す夏の一部を誰もが生きているのだと、少年が老人に学ぶばかりではない。老人があらためて少年に教えられもするのだ。


そう思えたのは読み終えて、久しぶりにハイロウズ‘夏の地図’を聴きながらドライブしていたときだった。

  昨日は読むもの、明日は書くもの
  まぼろしはぼんやり見える、夢ははっきり見える
  6月と9月にはさまれてるのが夏じゃない 宝物の地図 胸のポケットにあるのなら