P.K.ディック/ アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック/ アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (312P)/ハヤカワ文庫・1997年(090921-0923)】
DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP? by Philip K. Dick 1968
訳:浅倉久志


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映画『ブレードランナー』の原作として知られている、フィリップ・K・ディック1968年発表の傑作長編。著者は1982年、53歳で亡くなった。皮肉にもこの年に公開されたこの映画により、彼は一躍スターダムにのしあがることとなった。
ディックの作品には、SF小説でありながら、登場人物の人間関係、恋愛、家族のきずななどが見事に盛り込まれている。この物語も単なる賞金かせぎとアンドロイド8人のバトルで終わってはいない。人間とアンドロイドの違いを通して、人間とは何かを考えさせられる作品だ。(石井和人)


1993年、最終戦争で廃墟と化し死の灰に汚染された地球。人類は異星への植民を進めている。サンフランシスコ警察のリックは逃亡アンドロイドを始末する懸賞稼ぎだ。生物の死に絶えた地球では動物をペットとして飼うのがステイタスになっているが、リックは電気羊しか持っていない。市内に潜伏する8体のアンドロイドを無事に処理できればその賞金で本物の生き物を買うことができるだろう。彼は仕事に向かった…


        


いや、面白かった!ルトガー・ハウアーショーン・ヤングレプリカントっぷりの怪演が印象的な名作『ブレード・ランナー』のダークな映像美とは違う、灰に覆われて陽もささない一面砂漠の地球。アンドロイドを廃棄する自分の任務に主人公が迷い始める中盤から「すげー、すげー!」とわくわくして後半は興奮の一気読みだった!
アンドロイドとの対決場面が鮮烈なのでもないし、近未来のカッコいいマシンが出てくるわけでもない。美女キャラのレイチェルと(こちらの期待どおりに)恋仲に堕ちるのでもない。そういう映像イメージではなく、主人公リックの苦い葛藤が身にしみてわかって、SFなのだが小説の醍醐味にあふれた、語弊を承知で書けば「人情ドラマ」だったのだ。


人間社会にまぎれこんだ精巧なネクサス6型アンドロイドを識別するには、感情移入度をテストしてその反応を測る。たとえば「レストランでエビを注文したらコックが鍋に生きたエビを放り込んだ」というような話を聞かせて生体反応を見るのだ。生き物への同情、共感が乏しい人造人間はプログラムによって人間と同じ反応はするが、わずかにその反応が遅れる。
火星に行き来してホバー・カーで空をドライブする時代なんだから、何か電子的な感知器はないのかい?とも思うのだが、そんなまだるっこしいやり方しかないらしい。そのアナクロ感が微妙に人間臭くて良いのだ。
ムンクの絵画に魅入っていた『魔笛』でパミーナを演じるオペラ歌手もアンドロイドだった。芸術を愛する彼女(…ではなく、「それ」)を容赦なくレーザー銃で仕留めた自分と同僚は、一応は人間だ… リックの仕事への信念が揺らぎ始める。

あの美術館のエレベーターに、おれはふたりの生き物と同乗していた―片方は人間、もう片方はアンドロイド…そして、彼らに対するおれの感情は、本来のそれと逆になっていた。おれがいつも慣らされている感情―おれに要求されている感情とは正反対だった。


言い換えれば、人間とアンドロイドの差異はその程度のものだということだ。アンドロイドの中には人間としての記憶をインプットされていて自分が人工だと知らない者さえいるのだ。ひょっとしたら自分もアンドロイドなのではないかという疑念さえ芽生えてくる。狩る側の自分は実は狩られる側ではないのかという疑問。
それでもリックは仕事を完遂する。アンドロイドと対峙して一番気に喰わないのは、彼らが生への執着を、死への畏れを見せないことだった。
放射能を浴びて遺伝子に問題がある者や知的レベルの低い者は「スペシャル」の烙印を押されて地球から出ることを許されない。そんなスペシャルの一人、「ピンぼけ」と呼ばれる弱い男も効果的に描かれている。知的に優れたアンドロイドと彼との対比によって、ほとんど同じでありながら決定的な違いも鮮やかに提示される。


またもやウエルズの「文明の発展は愚かしさの増大であり、やがては人類を衰退させる」という言葉を思い出した。
風が吹くたびに灰が舞い飛ぶ荒廃した環境で生きる人の心は、やはり同じように荒廃していくのだろうか。乾ききった殺伐とした感触を覚えながらも、リックが迷う姿に人間らしさを感じた。せめて一匹のペットぐらい飼えるといいのに、と同情もした。
やっと彼が手に入れた山羊をレイチェルが殺したのは報復だったのか、嫉妬なのか。あるいは自分に対するやりきれない怒りだったのか。はっきりしないまま終わるのも良い。そこにどんな想像を加えるかで、読者の人間度(アンドロイド度)が測れるのではないだろうか。
人間にだって冷酷なやつがいる。ロボットみたいなやつもいる。自分はどうだろうか、と現実に戻って自問させる。自分はアンドロイドほどではないけど、他者への共感は確実に薄くなってると思った…。

ハインライン夏の扉』もそうだったが、核戦争の壊滅的ダメージを受けた世界を近未来として想定しているのは、書かれた当時の核への恐怖が現在よりリアルで切迫したものだったのだろう。この世界はそう遠くない未来に確実に滅びるという予感が五、六十年代に輩出されたSF名作群のバックボーンだったのかもしれない。
こんな傑作をこれまで読んでなかったとは不覚だ。