葉室麟 / 風の王国

どういうわけだか毎年涼しくなると時代/歴史小説を読みたくなる。昨年は『天地人』以前の火坂雅志井上靖を読んだ。そうそう、和田竜の二冊もこの頃だった。今年もその流れが来た感じなのだが、今年は秋が早い!(小川一水『レーズスフェント興亡記』まだ読んでるけど)
これから葉室麟さんの本を何冊か続け読みする予定。


葉室麟 / 風の王国 官兵衛異聞 (233P) / 講談社・2009年(090929-1002)】

内容(「BOOK」データベースより)
秀吉の懐刀・黒田官兵衛キリスト教の教義を官兵衛に教えた日本人修道士・ジョアン、キリシタンの象徴的存在・細川ガラシャと、その侍女いと、キリシタンの天下人と望まれた岐阜中納言織田秀信らは、次々と追放や殉教という運命に翻弄されていった。伴天連追放令下、「かなわぬ夢」と「かなえてはならない夢」のはざまで生きた人々の思い。キリシタン受難の時代を、気鋭がダイナミックに描いた短篇連作集。


          


葉室麟さんの最新刊。
戦国時代のキリシタンの話なのだが、真保裕一『覇王の番人』、三浦綾子の名作『細川ガラシャ夫人』を読んでいたので時代背景がわかっていて読めて良かった。


本能寺の変、秀吉の朝鮮出兵、さらに関が原。戦乱と策謀の時代に、秀吉も家康も無視できない勢力としてキリシタン大名がいた。秀吉に仕えながらキリシタンとして生きた軍師・黒田官兵衛(如水)を軸に、歴史の激動を違う面から読ませる。
信長を討つように明智光秀を仕向けたのは如水だった。光秀の娘・玉子(後のガラシャ)、信長の孫・秀信との不思議な因縁。秀吉の死因はイエズス会が送った南蛮の毒薬カンタレラによるものなのか。関が原はキリシタンが弾圧されない天下をつくるための如水が仕組んだ合戦だった…
山崎の合戦で敗走した光秀は本当に死んだのか?というのは『覇王の番人』でも匂わされていた謎だが、本作の〈俄羅奢〉では人質か死かの選択を迫られたガラシャが彼に再会する(したのか?)というドラマもある。



将軍の独断で形づくられた歴史の影を、キリシタンの目線が照らし出す。そこにはミステリー的な想像力をかき立てる世界が広がり、関が原の合戦が如水の思惑どおりに動いていたなら、その後の日本はまったく違う形の国になっていたのではないかという気持ちにもなる。
信長も秀吉も、今で言えば「虐殺」と非難されることを平気でしていた強権な独裁者だった。民衆はただ恐れ従うしかない封建的な時代に、キリシタンは民主主義的存在として異彩を放っていたのかもしれない。ゆえに天下人は彼らを畏れ、時に強硬に接しなければならなかったのかもしれない。

キリシタンは異国からこの国に吹いた風でござった。われらは風となって生きましたが、風はいつかは吹き去る日が来るのです」


黒田如水細川ガラシャを結ぶ、信仰を通した細い細い線(縁)は途切れることはなかった。皮肉なことに、それまで異教徒を迫害してきた秀吉が没した後、関が原開戦の前夜にガラシャは自ら壮絶な最期を迎え、如水はそれを終生悔やんだ。この時代にキリシタンとして生きる覚悟がどれほどのものだったのか、その死に様によっても想像される。
この作品が他の時代小説と異色なのは、如水の策師ぶりをありがちな戦国武将の政治的才能として描いていないことだろう。配下の武将が寝返らないように家族を人質にとる、あるいは強制的な政略結婚をさせるなどといった武略計略をむやみにもてはやさない。そうしたいかにも武家的な欲望よりも、キリシタンであっても生きていける世の中を実現するための戦を秀吉の下で密かに目論んでいたのだった。


葉室作品一作目、良い本だった。講談社から『風渡る』という如水とジョアンを取り上げた長篇もあって、そちらも読みたい。
さあ、次行くぞ!