葉室麟 / いのちなりけり

葉室麟 / いのちなりけり (255P) / 文藝春秋・2008年(091003-1005)】


内容(「BOOK」データベースより)
「何度生まれ変わろうとも、咲弥殿をお守りいたす」 水戸光圀の一通の書状が、葬り去られた佐賀藩鍋島家の過去を招きよせる。上意討ちの命を受け、愛する妻の父親を狙わねばならなかった男の赤心。水戸藩と幕府の暗闘のさなか、引き裂かれた夫婦が再びめぐり合う-。骨太の時代小説にして、清冽な恋愛小説。


          


冒頭いきなり、(あの)水戸光圀公が家臣を手討ちにする場面から始まって驚かされる。この事件の真相が語られるのは中盤を過ぎてから。その間、佐賀、水戸両藩の家柄と幕府とのつながり、事件の背景になった事情が細かく語られていき、登場人物もとても多い。
保身と出世欲にまみれ権謀術数に走る大名たちの中にあって、武芸に覚えはあるが、あまり武士らしくない男が婿入りした家の内紛から出奔することになる。
佐賀藩の複雑な内情に将軍・綱吉の水戸光圀への牽制、幕府と公家の対立、家老の謀りごとに武士の個人的な恨みもが絡み合って、めぐりめぐって離縁した夫婦が十数年の時を超えて運命的な再会を果たす。


雨宮蔵人という軽格の武士が主人公だが、大柄でちょっと天然なところもあり「鈍牛」を思わせるところは『のぼうの城』の‘のぼう様’に似たイメージがあった。
彼の教養ある妻・咲弥の「強いだけでなく風雅の心得ある者こそ真の武士」という言葉に、蔵人は自分の無学を恥じ、書物を読み、自分の想いを託せる和歌を探し始めるのだった。
(…まったく、新婚初夜に「好きな和歌を教えろ、でないと寝てあげない」なんて女はこっちから願い下げだ!と読んでて腹が立った。風雅か… ランボーの詩ならいくつか覚えてるけど、だめ?)
武士とは何か、どうあるべきなのか。ただ主君に尽くすのが武士の生き方なのか。徳川幕府の安定とともに武力頼みではなく文治という考え方も幕府が持ち始めた江戸時代。武家と公家の違いがしきりに取りざたされて互いに敵意を持ったのも、武力による統治の時代が遠くなっていたからかもしれない。「大日本史」を編纂していた光圀が、徳川方でありながら日本の中心を天皇だとすることに綱吉が反感を持ったというのは、わかりやすいエピソードだった。
武士も剣客として生きていれば良いという時代ではなくなったことを、蔵人の姿が象徴しているようだった。単なるお人好しなだけかもしれないが。

「そうだ、和歌とは神と和し、人と和するためのものだ。そして和歌は朝廷によって伝えられておる。和歌を学ぶことは、この国に伝えられてきたものを尊び、秩序を乱さず、文治の世をつくることでもある」


終盤のクライマックスは、それまで語られてきた史実に基づいた複雑に入りくんだ背景は何だったのかというほどのエンタメ的な展開になる。罠だとわかっていて咲弥の下へと京から馳せ参じる蔵人。武士でありながら無用な殺生を好まない男だったのに、ここではバッタバッタと行く手の敵を斬り倒して駆け続ける。大井川では水中の決闘まで演じて濡れネズミのごときありさまで約束の場所にたどり着く。
十数年もの時をへだてた妻との再会は、あっさり書かれただけで終わってしまい、ラストは駆け足の印象。というか、史実の説明部分のボリュームに比してドラマが薄い。そのアンバランスのせいで正直、もの足りないエンディングだった。
祝言の夜に咲弥が引いた西行の和歌への返歌を、蔵人が十七年もかかって見つけた。せっかくのその魅力的な「風雅」がもっと描き込まれていれば…と思った。

「なぜ、そう思う」
 五郎兵衛は清厳をにらんだ。清厳は静かに瞑目した。清厳には東海道を疾駆する蔵人の姿が見えていた。
「蔵人殿は恋をしてござるゆえ」


でも、面白かった!
風の王国』が九州のキリシタン大名、この作品でも佐賀藩を取り上げ、キリシタンの存在(島原の乱)にも触れている。葉室氏は小倉の生まれということで京都、大阪、江戸中心の時代小説のカウンター的存在なんだろうか?
お家のために命を投げ出すことを厭わない男たち。斬るか斬られるかの武士の世界。それを男のロマンとして描く小説は多いけれど、そればかりではない生きざまを書いてみせたこの二冊、とても良かった! 
次も葉室作品を読む。