山田正紀 / イリュミナシオン

葉室麟さんを読んでいる間に購入して、早く読みたい!と思っていた本、だったのに、いざ読み始めると、いつの間にか寝入っていたり。ちょっと自分が期待していたのとは違っていたけど、なんとか読了。


山田正紀 / イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ (399P) / 早川書房 ・2009年(091013-1017)】


内容(「BOOK」データベースより)
内戦に揺れる東アフリカの国家サマリスの国連領事、伊綾剛に突然与えられたのは「アルチュール・ランボー捕獲のためイリュミナシオンへ向かった『反復者』を追って、『非情の河』を下れ」という任務だった!人類の理解を超越した侵略者との戦いを、ランボーの詩に乗せて華麗に奏でる、幻想ハードSF。


          


アルチュール・ランボーが二十歳で詩作を放棄したのはなぜか?本当は彼はヴェルレーヌに撃たれたときに死んでいたのではないか?白人でキリスト教徒の彼がイスラムの地アビシニアへと向かったのはなぜか?―いわゆるランボー・ミステリーを下敷きに、アフリカのイスラム国家で勃発したPKO多国籍軍民族主義ゲリラ軍の戦い、人類と「反復者」の戦いを描く大作。
ランボーの未発表詩『夜警』を手に入れるために「反復者」(レペテイシオン)が〈性愛船〉を動かし、それを阻止するために人類は〈酩酊船〉を起動させなければならない。そのクルーとして時空を超えて召集されたのは伊綾、ヴェルレーヌ、聖パウロ、阿修羅、そしてエミリ・ブロンテだった…

という、SFとはいえあまりに荒唐無稽な設定で「こりゃ失敗したかな」と思いながらも読む。おまけに、その設定を説明する量子力学素粒子論、哲学の記述も多くて冗長で、ついつい眠くなってしまうのだった。

 なぜって、詩は書かれるものではなしに、現実にそれを生きるものだということが、いまのおれにはありありと実感として感じられるからなのだ。どうして詩を現実に生きている人間に、ことさらあらためて詩を書いたりする必要があるだろう。現実に「地獄の季節」を、「酩酊船」を、「イリュミナシオン」を生きている人間にどうして?


途中からは理論解説部分は飛ばし読み。時空を超越した存在としてランボーは五人の〈酩酊船〉クルーと接触があった。『ハイベリオン』風に綴られる五人それぞれの物語は(突拍子がないだけに逆に)面白いのだ。
「一つであり全てであり、人類が追い求めながら手に入れられなかったものは何か」というスフィンクスの謎かけにパウロはとっさに十字架を指差したのだったが、はからずもその先にはランボーがいた。
万葉集の「詠み人知らず」の歌はランボーが柿野本乱麻呂として書いたものだった。
食を拒み死の観念に憑かれていたエミリー・ブロンテに、彼女が雄々しい「縛られない魂〈チェインレス・ソウル〉」の持ち主だと指摘したのはランボーだった。『嵐が丘』のヒースクリフは無意識のうちにランボーの分身として書かれたのだった。
「風の足裏を持つ男」ランボーは、タイム・パラドクスの影響を受けないイリュミナシオン詩・時空間を自由に行き来する旅人だったのだ。


詩とは何か、ランボーとは何か。それはサマリスに現出したブラックホールのような結晶城の謎を解く鍵でもあるのだった。
ランボーの謎多き生涯にこんな形で迫るとは…!ビッグ・バン(宇宙の創造)にまで話が膨らむので、いささか飛躍しすぎ、話がでかすぎる感はあるし、理論説明にかなりのページが割かれているので物語の統一感もいまいちだったとも思う。
当然、詩とその解釈に言及する部分が出てくるので、もっと詩的な美しい描写を期待していたんだけど、そういう作品でもなかった。イラク戦争を思わせる戦争にランボーを絡めたのはミスマッチのような気もした。
でも、山田正紀なりの、SF作家の手腕を発揮してのランボー像は伝わってきた。幻想・奇想(=アイデア)の暴走と強引とも思える論理づけも山田正紀らしい。(たしか彼の作品には石川啄木をモチーフにしたものもあったと思う→未読)

 あるいは、こうも考えられる。ランボーはたぐいまれなる才能を発揮し、その言葉の呪術をぎりぎり限界まで駆使することによって、まさに生きながら「死と再生」を繰り返したのだ、と。もしかしたら、そう、もしかしたら……


『酩酊船』(多くの日本語訳では『酔いどれ船』)はブルジョアへの反感が全開になった、自由を謳歌するランボーの代表作だ。乗員はいず、解き放たれて水面を疾走する無人船はランボーそのものだ。
この作品での〈酩酊船〉は「反復者」に対する人類の最終兵器みたいな扱いで、もっぱら乗員の顔ぶれと結びつきに腐心していて、本来の詩のイメージとはつながっていないのが残念。アメリカの利権のための戦争の片棒担ぎみたいになってしまうのには、ランボーも納得しないと思うけど(笑)。
この詩だけは(冒頭部分だけだが)小林秀雄の訳が使われているのは◎

ランボーはなぜ詩を書かなくなったのだろう。久しぶりに彼の詩集を引っぱり出して読むことにもなったのだが、やっぱり一番好きなのは『わが放浪』だった!(本書では触れられていない)ランボー関連の本もこれから見つけたら読みたい。