田中栞 / 書肆ユリイカの本

ベストセラーにまったく興味がないので、お目当ての本を店頭で買えるのは5割ぐらいだろうか。この本もアマゾンで買うしかないだろうなと思っていたら、なんと、いつも行く本屋にあった!


【田中 栞 / 書肆ユリイカの本 (277P) / 青土社・2009年(091021-1024)】


内容(「BOOK」データベースより)
原口統三稲垣足穂、那珂太郎、中村稔、飯島耕一、吉岡實、清岡卓行大岡信入沢康夫…。燦然と輝く戦後詩人の初期作品を大胆に出版し、現代詩の行方を決定づけた小さな出版社・書肆ユリイカ。その詩集・戯曲・翻訳・雑誌などを幾多の困難も排して徹底追求し、蒐集・鑑賞・調査と、あまりにも巨大なる遺産を自在かつ緻密に愛で尽くした情熱の書。


☆著者・田中栞さんのブログはこちら→田中栞日記/『書肆ユリイカの本』内容紹介


          


これはディープだ。数十年前に出た書物を執拗に追って、ほとんど個人経営といっていい零細出版社のありし日の姿を書誌学的見地から蘇えらせる。文学の巨星たちの過去を手っ取り早くまとめた感の『ロストブックス』に続いて読んだので、なおさら著者・田中栞さんの一心不乱、仕事への没頭ぶりに驚異を感じた。
終戦直後の混乱期に伊達得夫がひとりで始めた書肆ユリイカ。彼は四十歳の若さで病死するまでの十三年間、ほとんど手作業で若き詩人・文学者たちの処女作品集を世に出し続けた。そのユニークなブックデザインが一際目を引くユリイカ本に魅せられた著者は全刊行物を集め始めるのだが、事はそう単純ではなかった。
実際に手に取ってみると、同じ本なのに微妙に違いがある。増刷ではなく同版なのに奥付が違っていたり、装丁や印刷に違いがある。不可解な発見をするたびに著者は実物を見比べて調べなてみければ気がすまない。図書館、文学館、あるいは古書店へと日参し、ときには一冊の本の奥付を確認するためだけに地方の大学にまで足を運ぶ。
多くの図版(写真)と細かい解説でユリイカ本の魅力と著者の疑問が具体的に示され、調べるとなれば古書業界に流通する高価な古書を買い求めては、その苦労を文章に匂わさずに丁寧に検証していく。


個人的にユリイカ青土社以前の)に興味があったわけでもないので、印刷された発効日と実際に国会図書館に納められた日付のずれなんて「ほっときゃいいじゃん」とも思うのだが、何か誌面から著者の異様な真剣さが伝わってきて、半世紀も前の詩集出版事情に一緒に思いをめぐらすことになる。目的の書物を失踪人とすれば、田中さんがかすかな手がかりをもとに限られた手段で、しかし粘り強く丹念な捜査をする探偵のように見えてくる。関係者はほとんど生存していないので、とにかく現物そのものに当たるしかない。奥付と国立図書館の所蔵記録だけを頼りに当時の伊達と書肆ユリイカの状況を推察し、造本・印刷出版への造詣が深い著者の考察が加えられていく。
そんな形で一冊一冊への探究が重ねられて、今でいえば同人誌やインディーズのような書肆ユリイカの姿が少しずつ明らかになっていく。大手出版社のように管理・記録が万端なはずもないので(むしろずさん)極端に言えば一冊ごとに違っていて、それゆえ逆に一点ものの魅力的な本をユリイカは出せたのだった。


書肆ユリイカの「1.本の作り方」「2.国会図書館で閲覧する」「3.本を調べる」「4.本を買う」の四章からなる。
著者がユリイカ本蒐集にのめり込む動機は多くは語られていないが、書肆ユリイカの記事を書く仕事を引き受けたことがそもそもの始まりだった。記事のために数千円の古い詩書を買い出すと次第に購入意欲が高まり、書価の桁が一つまた一つと上がっていくのだった… 図書目録にない本も多数あって、現在では国会図書館の所蔵を大きく上回るコレクションになっているようである。
第四章では時系列順に著者の購入本と価格が記され、さながら「ユリイカ本コンプへの道」的内容になっている。定価のない古書買いの指南としても面白く読めるのだが、エスカレートしていく自分を冷静に記録しているもう一方の視線が下敷きにあって、それまでの三章の冷静な考察に結びついているのだろう。

覆い帙(ちつ)、函入等の特装・異装の造本、署名入りの献呈本、活版印刷による増刷、国会図書館への納本制度、古書業界など、本にまつわる色々なことを知ることが出来る本でもあった。
書肆ユリイカからは中原中也訳の「ランボオ詩集」も出されていた。解説は大岡昇平(!) なのだ。神保町の〈ランボオ〉という喫茶店はまだあるのだろうか?

それまでも好きなイラストレーターが表紙絵を描いているからという理由で本を買うことはあったが、書誌ユリイカの本に対しては、そんな生やさしい衝動ではすまない。見たものはみんな欲しくなる。いや、見ないものまで全部欲しい。


著者は意識しているかどうかわからないが、これだけの徹底と執着ぶりを見せつけられると、もちろんこれはまず書肆ユリイカの本ではあるけれども、同時に田中栞という人物像がささやかに浮かび上がってくるドキュメンタリーでもある。
もともと本好きだったとはいえ、何の因果か興味も知識もなかったマイナー出版社の痕跡を数年がかりで辿ることになろうとは、この作業を始める前の彼女は想像しただろうか? ただ「書肆ユリイカ」について調べるだけだったら、この本は生まれなかっただろう。この人の書物への並々ならぬ情熱はどこから来るのか。本を文化遺産として愛でることができるのは、彼女が『古本屋の女房』だからだろうか?

原稿に書かれた字句だけが本なのではない、内容に呼応共鳴する意匠を凝らさねばならない。そんな編集者・伊達得夫の心意気が反映されたかのような、表紙カバーも装丁も紙質も、上品というよりは上等なと言った方がぴったりな造り。豊富な書影は見るだけでも楽しい。これだけの古書ユリイカを買い集めるエピソードをメインに展開しても、それだけで一冊の本にできただろうが、田中さんはそうしなかった。本文も、面白く書こうとするならいくらでもネタがあったはずなのに失敗談やこの間の個人事情は極力排して雰囲気を損なわない文章でまとめてある。半端な覚悟じゃ付けられなかっただろうこのタイトルにふさわしい、堂々とした「本の本」に仕上がっている。
(でも、この本のおかげで古書業界内でユリイカ本が値上がりしてそうな予感がする(笑))