E.ムーン / くらやみの速さはどれくらい

エリザベス・ムーン / くらやみの速さはどれくらい (470P) / 早川書房 ・2004年(091109-1113】


・内容紹介
 胎児〜乳幼児期での自閉症が治療可能になった近未来。自閉症者最後の世代であるルウ・アレンデイルは、製薬会社の仕事とフェンシングの趣味をもち、困難はありつつも自分なりに充実した日々を送っていた…ある日上司から、新しい治療法の実験台になることを迫られるまでは。“光の前にはいつも闇がある。だから暗闇のほうが光よりも速く進むはず”そう問いかける自閉症者ルウのこまやかな感性で語られる、感動の“21世紀版『アルジャーノンに花束を』” 〈2004年ネビュラ賞受賞〉


          


あー何だろう、この読後感。これは自分が望んだ結末だったのか、予想外だったのか。主人公ルウにとって本当に良かったのか悪かったのか。圧倒されたというわけではない。ちょっと呆然としたまま読了して(昨夜から徹読)、狐につままれたような感じのままだ。 読んでいたここ数日、職場でも家でも「こんなときルウならどう考えただろう」と思ってばかりだったから、こんな風に終わってしまうのをすんなり納得できないのは平凡なノーマルの奢りだろうか。
ルウの暗闇に光は追いついたのか。それともやはり暗闇の方が速く進んでいるのか。結局これは読者にはわからなくても良いことなのかもしれない。ルウという人間にとってはこれで終わりというわけではないのだから。



始め、回りくどい表現が読みにくく感じた。それが主人公ルウの、自閉症者の内面世界を書いた独白だと気づくと、読み方が変わる。健常者(ノーマル)と接するとき、自閉症者が一言発するのにこんなに複雑で慎重な思考を重ねているのかと驚き、また、自分の言動が不自然でないか、不作法と思われないか、絶えず気にしながら行動していることに同情も感じた。
ルウの一人称の文体が慣染んでくると次第に「そんなふうに考えなくて良いんだよ、ルウ」ともどかしく、やきもきしながら見守るように読んでいた。
我々は日常生活の会話は必ずしも辞書どおりの言葉で話しているわけではないし、個人個人で微妙にニュアンスの違いがあったとしてもコミュニケーションは成立する。ある人物を差して「奴はヒールさ」などとノーマルが言うのがルウにはわからない。人間なのに「かかと」であるとは?「ガールフレンド」という言葉も彼には気楽に口にすることができない難しい単語の一つだった。

自分が障害者であるという自覚はときに必要以上に強く働いて、健常者に対して劣等感を感じてしまう彼を追いつめる。繊細であるがゆえに自分に対する相手の反応に敏感で、またそれにも増して動揺して言葉が思い通りに発せられなくなる自分自身の姿に特に過敏だ。
こんなに神経を張りつめて毎日を送っていたらほとほと疲れて磨り減ってしまうだろうと心配になる。会話の流れの中で一語一語に正確な意味を求めないで彼のようなストレスを感じないで済む分、健常者は鈍感だからこそ幸せなのだとはいえるかもしれない。
空港の入場ゲートで金属探知機は鳴らなかったのに警備員に不審者として訊問される場面は、知的障害者が警官五人に取り押さえられて死亡した二年前の佐賀の事件を思い出した。



ルウは「自閉症者最後の世代」という設定であり、大企業に勤めながら自活していることから高機能発達障害アスペルガー症候群)らしいことがうかがえる。初期介入治療と継続的なカウンセリングによって社会への適合能力も高く、車を運転しスーパーに買い物に行くこともできる。光に対する反応やパターン解析の能力の高さは、いわゆるサヴァンである。
清潔を好み規則的で静かな日常生活を送っているが、健常者との交流もある。水曜日の夜にはフェンシングのクラブに通い、日曜日には教会に行くことを欠かさない。競技会に参加するほど上達したフェンシング・クラブには信頼できる指導者夫婦がいて、彼が好意を寄せるマージョリという女性もやって来る。
そのマージョリとのフェンシングの場面が美しい。「好き」という言葉の扱いに思い悩むルウだったが、マスクを付けて彼女と対峙すると彼の頭の中にはパガニーニが流れて、マージョリのパターンを読んで、それはただの剣先の攻防ではなく、リズムを合わせたダンスのようになっていくのだった。突きを入れて終わらせてしまうことなど考えない。自分が攻めるばかりではなく相手にも機会を譲り、良い試合にするために互いの長所を出し合う。突かれた側が自己申告して勝敗を決するフェンシングという競技の魅力も伝わってきた。

 考えることは光で、考えないことは闇で表されるということをいつかなにかで読んだことがある。彼女とフェンシングをやるあいだ私はほかのことを考えている。そしてマージョリは突きが私より速い。だからもし彼女がほかのことを考えていないのだとすると、この考えないということが、彼女の動きをより速くしているのか。すると私の考える光より、考えないという闇のほうが速いということになるのだろうか?

それから、職場の同じ部署にいるリンダが天文学に興味があることを初めてルウに打ち明けるところも好きだ。それまで同じ自閉症者グループの中でも最も障害が重いように見えた彼女だったのに、そのときの彼女は口ごもることもなく生き生きと、ルウの顔をまっすぐ見つめて星のことを話すのだった。



これは障害があるからこそ無垢で人間的なのだという単純な物語ではない。ルウの上司の兄がルウたちのような治療を受けられなかった重度の自閉症者であることが匂わされてもいる。発達障害とは何か、その治療とは障害を取り除くことなのか。健常者との共存だ社会参加だと言うけれど、彼らへの一方的で過剰な干渉になってはいないか。人間の個性の領域まで医療科学は制御できるのか。それが可能だとして、では、やってしまっていいのか。読みながら多くのことを深く考えさせられたが、そんな定義付けを越えてもっと前向きな何かが書かれていたはずだ。
自分への敵意を一方的にエスカレートさせて逮捕された粗暴な男(頭が正常ではない健常者)への厳しい更生処置を彼(頭が正常な障害者)は望まなかった。けして攻撃的になることがないルウという人物をこちらは「健常者」目線でどこまでも優しい人なのだと勝手に思いこんで愛しくさえ思うのだが、彼自身はけして全面的にその男を優しさから擁護しているわけではないのだった。
この「ズレ」― 自分とルウの間に絶対的に存在しているズレ ― がそのまま完璧に、全部を含んで結末に反映される。ちょっぴり、裏切られた気持ちもないでもない。自分の思いは複雑に入り乱れたままだ。健常者−障害者、軽度の障害者−重度の障害者、(自分のような)平凡な健常者−非凡な障害者。どういう見方をしても一面的にならざるをえない。こうして書いていても全然まとまらない…
障害があろうがなかろうが、記憶の意味もこの小説の重要なテーマなのだとは思う。憶えていること、思い出せることは、現在につながっていることでもある。それは未来の自分への可能性を広げる。記憶は個性の一部なのだ。
いろいろな思いが錯綜しているけれど一つだけはっきりしているのは、この物語が終わってしまって寂しいということ。どっぷりと浸ったのは障害者の世界ではなく、ルウ・アレンデイルという個性だったのだから、今感じているこれは別れの感覚にちょっと似ている。