太田治子 / 明るい方へ

『恋の蛍』を読んだのならばこちらも無視するわけにはいかない。太宰治の娘・太田治子さんの、両親への想い。


太田治子 / 明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子 (236P) / 朝日新聞出版・2009年(091207-1210)】


・内容紹介
 太宰文学の最高峰『斜陽』のモデルとなった太田静子と太宰との間に生まれた著者が、満を持して語る「父と母の愛のすべて」。『斜陽』は母・太田静子の日記をそのまま写した箇所も多い。父・太宰の男としての狡さなども容赦なく見据えながら、尊敬する「文学者・太宰」を真正面から描いた著者渾身の書。


          


『恋の蛍』に続いて勢い込んで読み始めたんだけど… 大きくため息をついたり舌打ちしたりしてはいったん本を閉じて、また開く。やっぱり自分は同姓として太宰治という人が嫌いだ……

切ないのだ。実在した作家とはいえ、自分にとっては限りなくフィクショナルな存在の太宰治。だが、この本の著者・太田治子さんは太宰の実の子なのである。
今年「生誕100年」であらゆるメディアで目にした太宰賛美の能天気な文章を読むのとは違う、肉親のフィルターで透かされた太宰治。実の娘なのに母の言葉を通してしか知らない父。会ったこともない。彼女が生まれて一年もしないうちに、その男は母とは別の女性と死んだのだ。つながりは、本名から一字を送られた名前と、自分の中に流れている血だけ。この本で著者が「太宰」と書くその人が、彼女の父親なのだ。



この人はこれまでにいったい何回『斜陽』を読んできたのだろう。それは彼女の母・太田静子さんの日記を下敷きに書かれたものであり、ほぼ全部が使われていて原文のまま引用されている箇所も多いという(蛇の卵を焼いてしまったことも灯火管制下でのボヤ騒ぎも実際に静子が体験した事件だった)。自分らしき生命の誕生までもそこには仄めかされている。「あなたは芸術の中から生まれた子なのよ」母にはそう言い聞かせられていたというが、初めて『斜陽』を読んだとき、どんな気持ちになっただろう。成長し、事実を知れば知るほど母への抗議も父への憎悪も膨らんだはずだ。自分の生命がどうして宿されたか見つめ続けて生きるのはさぞ苦しかったろうと思う。こうして本に著すことができるまでにどれほど記憶を反芻し、答えのない問いを繰り返してきたことだろう。
『斜陽』の中の母の言葉と太宰の創作部分を照らし合わせては、そこに作家ではない一人の男としての心情を読もうとしてしまう。両親の形見ともいえる作品に自分の父親の姿を探して深読みする娘の姿がここにはある。
著者はきわめて冷静な態度で記述している。だけど、客観的ではない。自身と肉親のことなのだから、それは当然のことだろう。母と祖母、そして太宰がいた現実。そのごく私的なはずの関係が、世間では名作として知れ渡った小説として絶対的に存在してしまっているのだ。数十年の間彼女の内にあった混濁と煩悶は少しずつ削がれて、もしかしたら両親を否定しないで済むように記憶も変容させながら、やがてこうして彼女なりの折り合いをつけることができたのだろう。



淡々と語られていく母親への追想。記憶の中の母の表情と言葉。そのまた向こうにしかいない父。
自分を生んだ母親と、自分を身ごもらせた父親の関係を、母の記憶をもとに丹念に追っていく旅。父の実像を求めては浮かんでくるのはどこまでも身勝手な作家の姿ばかりなのだった。
貴族階級の没落と「道徳革命」を描きたかった太宰は、美しく気高い母のことが書かれた太田静子の日記が欲しかった。太宰はその日記を受け取りに静子さんに会いに行き、彼女を懐妊させる。妊娠したことを告げに行った静子さんに対する太宰のよそよそしい態度は本当にむごい。山崎富栄も同席していたその日のことは『恋の蛍』にも書かれていたが、母が受けた冷たい仕打ちをそのとき胎内にいた治子さんが書いているというのが、なんともやりきれない。他人事のように書くしかない筆致が逆に残酷で胸が詰まった。
救われるのは静子さんが無邪気な方で、治子さんがそれを良く理解していること。恵まれた家庭に育ち文学少女でもあった静子さんは、未婚の母としてひっそりと生きた。苦労知らずのお嬢さんだった彼女が倉庫会社の食堂で働きづめに働いて治子さんを女手一つで育てたのだった。
そしまた今、治子さんは娘さん(太宰の孫)に両親のことを語り伝えているようだ。



とうとう最後まで自分には想像がつかなかった。こうして文章として目の前にあって、それは平易な文章で読みやすいのに、そこに書かれてある著者の生きている運命とか両親への想いは絶対に共有できなくて、こんな人生があるものかと、ますます他人事のような感想になってしまう。安易な感情移入は出来ないし、かといってクールに読もうとすれば事実の解釈の問題に突き当たる。それが読んでいて切なくて苦しい。
太宰の側の事実はどうだか知らないが、娘のこの言葉は真実なのだと信じる側に立つしかない。歴史が誰にどのように決定づけされて記述されていくのだとしても、名を成した者だけの、傲慢な男の側の歴史の一方にはまた、その反対側の暗い蔭がある。『明るい方へ』というタイトルにこめられた著者の意を慮ると胸が痛むが、こうして彼女が想いを形にしたことで「なぜ?」で埋めつくされた記憶にやっと一つ、区切りの読点が打たれたのかもしれない。母が書いたはずの「斜陽」と太宰が脚色した「斜陽」、その二つがダブる半生を生きてきて、ようやく一つの『斜陽』を自分の中で認めることができたのかもしれない。

当たり前だが、小説は終わっても人生は続く。これを読むべきは太宰治だ。



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続いて実家にあった津島美智子『回想の太宰治』と井上ひさし『人間合格』の再読まで‘太宰作品を読まない太宰シリーズ’で行くつもりだったが、ヘヴィーなので止める。


学生時代に古本屋で買った『ユリイカ・1975年3・4月号/特集=太宰治 私とは何か』も出てきたのでパラパラと見る。

          

寺山修司の「歩け、メロス」は彼得意の〈父性喪失〉の観点からメロスの物語を解体して「私」優先の太宰批判を展開していて、さすが寺山!と思わせる。彼が分析してみせたメロス=太宰の姿は『明るい方へ』で読み取れる作家のあざとさにぴたり一致する。寺山は同じ青森県出身ながら太宰を好きではなかったようだ。
吉本隆明他の太宰と三島の比較論もある。
三島由紀夫が東大在学中に太宰に面と向かって「僕はあなたの文学が大嫌いです」と言ったというのは有名な話だが(「そんなら来なけりゃいいだろ」とそっぽを向かれた)、なんとも青臭いけど三島っぽいエピソードだと思う。三島は自分に似たところがあるからあえて太宰に反発してみせたというのが通説らしいが、吉本隆明は二人の相違を挙げ、本当に嫌いだったのだろうと語っていて、自分も同感。


[メモ]
 ・作家と娘―森鴎外と茉莉、幸田露伴と文、萩原朔太郎と葉子、孫の朔美。太宰と太田治子津島佑子吉本隆明とばなな。



[12月26日追記]
今日のニュース:『斜陽』の舞台が全焼、不審火か

『斜陽』の舞台、というよりは太田静子さんが暮らして、まさに「斜陽日記」を書いた南足柄の雄山荘が消失した。
NHKニュースでは「太宰と交際のあった女性が暮らしていた別荘」と静子さんの名は伏せて伝えられていた。太田治子さんの電話でのコメントも流されていた。