遠田潤子 / 月桃夜

またいきなりこんなの書いてデビューする人が現れた。『地獄番 鬼蜘蛛日誌』、『魚神』と同じ匂いがする。「ファンタジーノベル大賞」の肩書きなんてなくても、読む前から好きなのはわかってた。もちろん(ほぼ)一気読み!

※一気読みの後すかさずここに一気書きしたんだけど、仕事中に考えが変わってきて苦労して書きなおした(苦笑)


【遠田潤子 / 月桃夜 (280P) / 新潮社・2009年(091215-1217)】


・内容紹介
 想いは人知れず、この世の終わりまで滾り立つ―。死んでもいいと海を漂う茉莉香に、虚空を彷徨う大鷲が語りかける。熱く狂おしい兄の想いを、お前はなかったことにできるのか?かつて二百年前の奄美にも、許されぬ愛を望んだ兄妹がいた…。苛酷な階級社会で奴隷に生まれた少年は、やがて愛することを知り、運命に抗うことを決意する。
(第21回「日本ファンタジーノベル大賞」大賞受賞作)


          


カヤックでひとり南の海を漂流する茉莉香の「海のはなし」と、カヤックの舳先に停まって独つ眼の鷲が茉莉香に語り聞かせる「山のはなし」。現代と過去の物語が並べられて、やがて交錯し一篇に織り上げられていく。
天保の時代、薩摩に隷属していた奄美の島で出会った二人の孤児(みなしご)。砂糖黍畑で奴隷のように働かされながら「憐れなフィエクサ」と「愚かなサネン」は互いに助け合って実の兄妹同然に育つ。
やがてサネンが美しく成長し…、という「山のはなし」の成り行きはまだ幼い二人が一緒に暮らし始めたところから容易に想像がつくし、実際その通りに進行する。だから、どのように二人の仲が引き裂かれるのか、半ば心配し、半ば期待しつつ、読む。


「幸福な家庭は一様に幸福に見えるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸」というのはドストエフスキーだったかトルストイか。だけど、親のない子供の運命はどの時代でもどこでも同じように思える。貧しくとも無邪気で明るかった子供が成長−男はたくましく、女は美しく−すれば、待っている運命は(語弊を承知で書けば)うんざりするほどありきたりなものに過ぎない。
たぶん、クライマックスのイメージ(=悲劇的な最期)は始めからあって、いかに通俗に没しないでそこに導くかに筆者は傾注したはずだ。
それが苛酷な労働生活の中の、フィエクサの「碁」とサネンの「針突」(=ハジチ奄美沖縄諸島の風習で女性が手の甲に施す入れ墨のような装飾)になる。読んでいると「碁って、あの碁?」とちょっと意表を突かれるのだが、碁は閉ざされた島から琉球、本土へと希望をつなげるフィエクサの憧れの象徴であり唯一の手段、土着文化の針突は奄美に生きる女としてのこだわり、サネンの覚悟として、この二つは小説上で実に効果的に機能しているのだった。
ヤンチュという階級制度やケンムン、ユタ、月桃、ガジュマルの木といった奄美の自然と習俗を絡めて伝奇的な装飾で彩りながら、だけど、根幹はとてもわかりやすい物語なのが「山のはなし」だった。

この世で添えないのならばあの世で(この作品では「この世の果てで」)というのは最近鮮烈なのを読んだなと思い出したのは、中山可穂さんの『悲歌』だった。


では一方の茉莉香の「海のはなし」はどうかというと、こちらは一見取って付けたような無知で幼稚な現代っ子の話で、奄美の兄妹の物語にくらべると印象は薄っぺらい。だが、(早くからその正体はわかっている)鷲の騙りに導かれて告白することである種の判決を得て救われる希望の物語ではある。
「島のはなし」だけでも充分に魅力的なのだが、そこで語られるのは悲劇とはいえ予定調和的であくまで様式美の範疇にある。そう、現代の悲劇においては、たとえ兄妹間の禁断でさえ様式美である。


……………

あれ?ということは…?


なんだか読後すぐの熱が冷めてこの物語を振り返ると、なんだか違う感想がもたげてくる。確かにフィエクサとサネンの話はドラマチックではあるけれど、やけにまとまりすぎている気がするのだ。ただの昔話というか、寓話の域を出ないというか。著者が書こうとしたのはそんな定型物だったのだろうか。
これは一読すると奄美の風習のもの珍しさにもよって「山のはなし」がより印象深くメインのように見えるけど、実は「海のはなし」を語るために「山のはなし」があるのではないか?始めは「山のはなし」をフォローするために現代の物語をサイドストーリーとして配置してあるのかと思ったのだが、そうではない?


そう思って「海のはなし」だけを読み返してみると…、これが面白いのだ!奄美の顛末がインプットされた頭で読むと、噛み合わない禅問答のように思えた鷲と茉莉香の会話が、いちいち気の利いた名ゼリフの応酬のように思えてくるのだった。
老獪な鷲が一方的に茉莉香をやりこめるばかりではない。自分を卑下してすぐに謝るこのひ弱な娘が、泣いてたかと思えば意識的ではないにしろ案外したたかな一撃を見舞っては、鷲の本心をちくちくと刺す。会話に緊迫の熱が増し、知らずうちに互いの本音を引き出しあっている。昔話を聞かせるつもりで話し始めた鷲は、いつしかそれが自分の話であることを隠そうともしなくなっていく…
ほとんど会話だけで進展するこの「海のはなし」の妙手妙味に気づかなければ、まずはありきたりの悲劇と再生の物語だと思ったままだったかもしれない。読み慣れた悲運に終わらせまいとする著者の意志と手腕はここにこそ表されているのだ。


過去と現代、山と海をつなぐこの「海のはなし」の四章が、それぞれに間違えた兄と間違えた妹を出会わせ結びつけて作品を重層的にしている。同時に過去の過ちを二百年を経た今に至って乗り越えようとする堅固な意志的存在を浮かび上がらせる。
死をちらつかせる茉莉香に容赦ない毒舌を浴びせる鷲がもはや自身で語った「憐れな」少年のままではないことに思い至れば、気の遠くなるような歳月をたった一つの約束のためにさすらい続けて自責も悔恨も舐めつくした壮絶な孤独が見えてくる。故郷の山に帰れないで飛び続けるしかない理由も「山のはなし」からはっきりとわかる。

誰にも語れなかった想いを初めて吐露することで(その相手が得体の知れない彷徨えるマブリ(=魂)であったとしても)、茉莉香は亡き兄を新たに救いなおすために生還する。だが、語ることで救われたのは彼女の方だけではなかったはずだ。
最後の「サネンと友だちになりたい」という何気ない一言は、この愚かな妹である「バカ茉莉香」にしては上出来だった。軽率な勝ち名乗りのようにも聞こえるそんなセリフにぐっときたのは我ながら不覚だったが、あの鷲だって悪い気はしなかっただろう。最後の最後に、あんな娘に一本取られたような気にもなったかもしれないが、いつもより翼が軽く感じられたのならそれだけでも良かったではないか。



深い。これは深いぞ。もう一回読めばまた違う感想を持つのかもしれない。(そしたらまた書き直さないといけないので読まないけど) その前に、もしかしたら自分はすごい読み違いをしているかもしれないし。でも、やっぱり深読みできる小説は大好きだ!『オオカミ族深読み日記』にタイトル変えるかな…