門井慶喜 / 天才たちの値段

【門井慶喜 / 天才たちの値段 (292P) / 文藝春秋・2006年(091220-1223)】


・内容紹介
 子爵の屋敷の地下室に秘蔵されていた巨匠ボッティチェッリ作「秋」。これは世紀の大発見か、罪深き贋作なのか? 鑑定眼ならぬ「鑑定舌」で真贋を見きわめる天才美術探偵、神永美有が活躍する美術ミステリー。


          


『おさがしの本は』に続いての門井慶喜氏の本。こちらは短大の美術講師・佐々木が美術品の真贋と鑑定をめぐって友人の美術コンサルタント・神永とともに知恵比べを展開する連作短篇集。
帯の文言や本の紹介文には「美術ミステリー」という単語が用いられているので有名な画家と絵画に関する謎解きばかりと思いきや、そうではなく幅広く書画骨董が対象。たとえば寺の法会で使われる「涅槃図」や陶器や中世の日本地図の話までもある全五篇。
個人的には葉室麟さんの時代小説を思い出す隠れキリシタンを採り上げた〈紙の上の島〉〈早朝ねはん〉が良かった。


全然雰囲気の違う作品なのかと思ったのだけれど、「謎解き」というよりは「なぞなぞ」っぽかった『おさがしの本は』と印象は近い。これが門井慶喜さんの作風ということなのか。
芸術論一辺倒ではなく、歴史文化史的だったり学術的な見地からも対象の価値を論じて、高騰を期待する投機目的の応札者ではなく、その美術品が本来在るべきところに落ち着かせる。だからこれは美術品そのものの価値と同時に、その出所(美術商に流れ着くまでの)をたどって元の正当な所有者を特定する、歴史探索のようでもある。そのために制作技術の発展経過と科学史が照らし合わされたり稀少な文献を頼りに推理を重ねる。
そうして導かれる結論は依頼者や当事者を決して傷つけないように配慮されていて、安心して読めるんだけど、ワンパターンなのがもの足りないといえばもの足りない気もした。


とはいえ、やはり『おさがしの本は』同様に侮れない感じはある。まず当たり前の前提条件として、美術品を文章で表現してみせなければならない困難をクリアしていること。それから歴史の整合性、時代考証を得るために主人公の二人は古い資料文献に当たるのだが、当然著者がその作業をしているのだから、実はこれは本読みの話でもあって図書館がらみでもある。
佐々木が学生時代に通った美術書専門の古書店主が神永の父だったというエピソードは説得力があって良かった。
神永の鑑定の前に佐々木の自信満々の考察があり、それを神永があっさり覆すというパターン。登場人物のキャラクター描写は薄いのだが、この知恵比べによって二人の個性が際立つ構成にはなっていて、要するに小説的には二つの仮定を提示しなければならない。記されている文章の軽妙さの裏で練られたからくりの複雑とそれに至る著者の知識と読書量を思うと、素直にすごいものだと感心してしまう。


もちろんストーリーそのものも楽しめるのだが、自分はこの人の文章がけっこう好きだ。『おさがしの本は』でも感じたように、やっぱりこの本でも開高健を好きなのだろうなと思わせられたのは、「多情多感」なんてほとんど開高の専売特許のような熟語を堂々と使っていたり、「悠々として急げ」的なアイロニカルな警句を頻出させるところ。たとえば、こんなふうな。

 「地図は世界を描くものではない。世界観を描くものだ」
 「根源的な問題なんてのは最も厳格な哲人か、ただの甘ったれのどっちかが持ち出すもんだ」
 「手を引くべし。私の中の常識人はそう結論を下した。が、情熱人はべつの主張をした」

あまり本業が忙しくなさそうな主人公に重厚さがないのでこんな名台詞もイマイチ軽く感じられてしまうのがもったいないのだけど。
図書館にしろ美術品にしろ生死に関わるわけでもなく、興味のない一般人にとってはそれこそあってもなくてもいい狭い分野の話なので「知的好奇心」という言葉で体よく括られてしまいがちなテーマではあるんだけど、基準のない「美」に関わる仕事に迷う佐々木に恩師がかける言葉に、門井慶喜さんの意気込みが表れていると思う。

「確実にそこに存在するもののために生きるのは簡単なんだ。しかし、あるのかどうかはっきりしないものに身を捧げるのは、こりゃあ強い意志を要するぞ。歴史を見ろ、人間の最高の知性はつねにその意志の継続のためにこそ用いられて来た」

この人はそのうちスゴいのを書くんじゃないかという気がする。


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12月26日
太田治子/明るい方へ(12月12日) を更新。
(『斜陽』の舞台、太田静子さん治子さん母娘が暮らした雄山荘が全焼―時事通信記事をリンク)