奥泉 光 / 神器 軍艦「橿原」殺人事件

ちょうど一年前の刊行時から気になっていたんだけど、800P超のボリュームと、敷居が高いんじゃないかという根拠のない食わず嫌いもあって敬遠していた。
去年の十一月だったか、野間文芸賞の授賞式を報じる新聞記事に、表彰式の壇上でフルート演奏を披露する奥泉氏の写真が載っていた。あ、そんな人なんだ…と著者の印象が変わって読む気になり、一日100Pを目標に読み始めた。


          


奥泉光作品を読むのは今年の目標の一つだったので、まずは一作クリア!



【奥泉 光 / 神器 軍艦「橿原」殺人事件 (上412P、下412P) /新潮社・2009年(100203-100211)】


・内容紹介
 昭和20年初頭、探偵小説好きの青年が上等水兵として、軽巡洋艦「橿原」に乗船した。そして艦底の倉庫でこれまで3人の変死事件があったことを知り、好奇心の蟲が騒ぎはじめる。「橿原」に隠された謎をめぐり憶測が飛交い、新たな変死事件は後を絶たず、艦内に不安が渦を巻き始める…。敗色濃厚な戦時下の軍艦を舞台に、時空を超え国を超えた壮大な日本論、日本人論が展開される 。


          


なるほどこれは『白鯨』がモチーフなのはわかるけど、自分が思い出したのは開高健『日本三文オペラ』である。
戦後間もない大阪の兵器工廠跡。広大な焼け野原に散り散りに埋もれる巨大な鉄骨や武器弾薬の重金属材料―かつては国有財産だったブツ―を素手で運び出す鉄屑屋集団‘アパッチ族’に集う奇っ怪で種々雑多な男たちの猥雑なエネルギー。一枚岩の結束を誇って飛ぶ鳥を落とす勢いだった組織が肥大化とともに個人の暴走を抑えきれなくなり自滅していく…

形は違えど、運命共同体でもある船は組織と個人を描くには格好の舞台であり、しかもその船は特殊な任務を帯びた軍艦で、さらにその上の組織には帝国軍、天皇制日本へと広がりを持つ。
昭和二十年(1945年)、本土は度重なる空襲を受け沖縄への米軍上陸も間近な時期に、戦争の大局から外れて単艦洋上に浮かぶ軍艦「橿原」も無政府状態の混沌に陥る。
通信・情報は遮断され外部との接触も断たれた集団を一閉塞社会として日本の象徴・縮図のように描き出すのは他にも類はあるけれど、本作が異例なのは、その「橿原」を当時の軍国日本のみならず、過去と未来(戦後)の日本をも往還する大胆な奇想装置として機能させたところだ。

けだし、この戦争に日本が勝つ、ないし負けぬためには、奇跡が起こる、つまりは「神風」が吹くしか最早ないのであるが、それには浮き砲台作りなんて地道な事業をこつこつ積み重ねていては駄目で、何かしら血が滾るがごとき、魂が燃え上げるがごとき激烈な行動が必要に違いないのであった。神風を呼ぶには犠牲がいる。悲壮にして純正なる犠牲が求められる。すなわち神風特攻隊こそ、その名が示すとおり、まごうかたなき犠牲であった。


栄光の第一艦隊所属でありながら実質壊滅状態にあった海軍の管轄から外れて陸軍との共同作戦を遂行するらしい「橿原」乗組員には、しかし、航路も目的地も示されず、具体的な任務は何一つ知らされていないのだった。厳格な軍規の下、常に死と隣り合わせの緊張感はあるけれど、自分を待つ死は名誉ある戦死なのか、ただの犬死なのか。艦の命運=自らの命は上官が握っているもどかしさは諦念と妙に弛緩した空気を生み、噂や憶測が飛びかう艦内には躁的な不安が渦巻いている。
総員退去の非常事態に命令系統に支障があった場合、自分の判断で避難してもいいか。現実的で切迫した疑問ではあるが、軍の法規ではいかなる場合にも勝手な行動は職務違反として告発されるのだという。これまでにもそうして何百人もが船と一緒に沈んだという挿話(実話であるらしい)は笑えない。
天皇陛下が潜水服を着てこの艦底にへばりついている」「天皇の双子の兄弟を救出に行く」だからこの船が沈むことはないのだという根拠のない、しかし切実な楽観に端を発するデマは「天皇は偽物であり、我々は偽臣民である。真の天皇は別にいる」という倒錯した新天皇論にまで発展する。
主人公の操舵員は飄々としたお調子者で探偵小説好きという設定で、艦内で起こる連続殺人に興味津々。鍵を握る内務科5番倉庫に何が隠されているのか探るともなく探るうち、「橿原」に科せられた任務につながる秘密に行き当たる。



従軍前に自ら推理小説を書いたこともある主人公の探偵的な、作家的な目線によって、艦内の様子は諧謔的に語られる。
たとえば大岡昇平のフィリピン山中を彷徨う主人公の凄惨に比べれば、この主人公ののんきさはいかにも戦後の現代に書かれた小説中の人物だと感じるのだが、その虚構ののんきさと背景説明として記述される史実の重さとのバランスが危なっかしくもぎりぎりの均衡を保って弛緩一方に流れない。
海軍と陸軍が犬猿の仲だったこと。瀬戸内海にまで米軍の機雷が敷設されていたこと。三種の神器の由来。海軍の象徴である戦艦「矢魔斗」の最期は、沈められるのを覚悟の上での特攻的出撃だったこと。
甲板上に集めた総員の前で切腹する艦長の姿は(三島由紀夫を連想させる)時代錯誤的な嫌悪感を抱かせはするが、そればかりなのでもなく、真・日本人の精神の幻のようなものが立ちのぼって見える気もするのだ。

最後の方で天皇玉音放送が引用されている。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の部分だけは今でも時々耳にするけれども、その前後の部分をしっかり読んだのはこれが初めてで、人間宣言の前とはいえ、国民に対してまだこんな言い方をしていたのかと無性に腹が立って仕方がなかった(小説内の議論として「天皇は戦争反対だったが、軍部にひきづられて〜」という文章もあるが、それでも、だ)。
小説の醍醐味に満ち、ブラックユーモアに溢れた語り口で読むのが楽しくさえ感じる部分も多いのだけれど、歴史とフィクション(虚構)のせめぎ合いにこそ、奥泉氏の主眼はあったのだろう。

どれほど無意味な死であろうと、武人の死には死それ自体の輝きがあるはずだと、オレは考えてきた。どこかで、死は、かろうじて詩でありうると、オレは最後のところで信じてきた。しかし、それは間違いだった!それをオレはいま確信する。無意味な死とは、詩どころか、散文ですらない、永遠に誰からも読まれることのない紙に滲むインクの染みにすぎないのだ。


もはや直接的な体験はなく資料から再構築するしかないのだから、六十年前の戦争も過去の一断面として坂本龍馬忠臣蔵を見るのと同じスタンスで接すれば良い。現代の立脚点である敗戦の事実も関ヶ原の合戦と同じように書き、読めば良い。……はたしてそれで良いのか?そんな問いが投げかけられているように思う。
歴史は文字によって書き残される。ならば書き換えることも可能だ。文字でしか伝えられなくなってしまった戦争は、どのように伝えられていくのか。一種の時代小説的手法で戦時小説に仕立て上げながらも、確信犯的に現代の視点を混在させて問われているのは、あくまで現在の日本と日本人の在り方だ。負けるはずのない戦争に負けて、日本人は絶滅するのではなかったか?いや、いま現在にも日本は緩慢だが着実に滅びつつあるではないか?
天皇という存在をここまで貶めて書けば、二、三十年前ならば衝撃的であり、きっと筆禍事件になっただろう。奥泉氏もかなりの覚悟のうえで書いたことと思う。しかし現代では議論にすら上らない。いや、こんな肩すかしを食わせる国だと、今の日本なら何を書いても他人事で不感症なのだから平気だと十分わかっていて、なおさら挑発的に書いたのかもしれない。
著者の自問自答が形になった長大な労作だったけれど、忘れたふり、知らぬふりを通り越して、本当に何も知らない世代で社会が構成される現代にあって、刺激的な作品でもあった。「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる」― 元ドイツ大統領の言葉を思い出しながら、答えなんてないのかもしれないが議論ぐらいはしようじゃないか、本の向こうからそう言われている気がした。