マシュー・ニール / 英国紳士、エデンへ行く

読み始めたのは昨年12月。もちろん始めは570ページ一気に読むつもりだったのに、これが予想外に手強かった。


1850年代のイギリスと1820〜30年代のヴァン・ディーメンズ・ランド(旧タスマニア、オーストラリア南の島)、それぞれの舞台の登場人物各人各様の語り(時に日記や書簡も)によって進行するのだが、時系列に沿わないランダムな配置なので、ややこしい。
歴史と地理の物語であるのに、そもそもマン島もヴァン・ディーメンズ・ランドも自分の中に関連知識が乏しいため、読み進めるうえでの手がかりがなく、ただ文字を追うだけになってしまった。
マン島ブリテンアイルランドの間にある島。バイクレースが有名でホンダを始め日本のバイクもここのレースに勝って世界進出を果たした。ヴァン・ディーメンズ・ランドはそういえば、U2の映画でジ・エッジがこの島名をタイトルにした曲を弾き語りで歌っていたっけ。思い浮かぶのはこれくらい。


…でも最近「マン島」の文字を見たな、と思ったら「可愛いにもほどがある」と話題のベッキーちゃんが彼の地の出身だと、彼女の記事で目にしていたのだった。それで俄然読書欲が高まった…というわけはなく、他の本にうつつを抜かしながら越年、匍匐前進の読書になってしまったが、やっとラストまでたどり着いた。



【マシュー・ニール / 英国紳士、エデンへ行く (574P) / 早川書房(プラチナ・ファンタジイ)・2007年(091205-100218)】
ENGLISH PASSENGERS by Matthew Kneale 2000
訳:宮脇孝雄


・内容紹介
 1857年ヴィクトリア朝英国、牧師ウィルソンは石集めの趣味が昂じて独学で地質学を研究し、「エデンはタスマニアにある」という新説を発表した。轟々たる非難と反論に晒された彼は自説を証明するためにタスマニア探検を計画するが、彼がそうと知らずにチャーターしたのは、英国人に反感を持つマン島人の、いわくつきの密輸船〈シンセリティ号〉(=誠実号)だった。波瀾万丈の航海が始まった。
一方、植民地化された1820年タスマニアでは、原住民の同化政策が押し進められていた。アボリジニと白人の混血児ピーヴェイは、種族の存続のために白人社会に入り込もうとしていた。
長い旅路の果てに到着したウィルソンら一行がタスマニアで目にしたのは……

博覧強記の作者ニールが、綿密な時代考証のもと、語りの超絶技巧+ユーモアで描く奇想大作。《2000年度ウィットブレッド賞受賞》


          


一度つまづくとそこばかり気にして仲々先に進めないのは、読書に限らず自分の悪い癖。不分明なところはそのままにしておいて、どんどん読み進めるということが出来ないので、いったん引っかかるとそこに立ち停まったままになってしまう。

今回がまさにその例で、航海部分の珍道中は、英国に反感を持つマン島人船長の皮肉たっぷりの冗舌がジーヴス的な笑いを誘って可笑しいのに、一方で平行して語られる植民地化されたタスマニアの状況がよくわからないので、停滞と徐行を繰り返す遅々としたペースになってしまった。
全部が一人称の語りなので説明的記述はまったくない。アボリジニの少年の狭い視野では、タスマニアで何が起こっているのかは断片的にしか伝わってこない。現地総督や司令官ら入植管理側の話も当然英国側の主観であって、全体の風景は見えてこない。
しかし主人公たちを乗せた船はタスマニアに向かっていて(フィクション)、理想郷の背景としてその地の現実が語られているのだから(史実)、そこで進行していることを掴まなければならない。

語りと語りによって連関し補完されて無数のパズルがつながっていくような構成。ある事象を複眼・多面的に展開して一つの事実に到達する。読み終えて振り返れば、たしかにこれは「語りの超絶技巧」だった。



タスマニア先住民は英国の植民地政策が進められた十九世紀の数十年の短期に絶滅した。流刑植民地でもあったため入植者は犯罪者が多く、先住民との衝突はスポーツのような‘黒人狩り’や集団虐殺にまでエスカレートしたという。
入植したすべての英国人が先住民を排斥したわけではない。が、保護名目の人種隔離・強制移住が進められ、「野蛮」な風習を禁じ「文明的」生活と教育を強制した。
夜間のパーティーアボリジニの儀式、祈祷)を禁止する。現地語での会話を禁じる。徳育と称して聖書を読ませる。能率のために長ったらしい名前を捨てさせ、西欧風の覚えやすい名前をつけさせる。厄介なのは、こうしたキリスト教と自分たちの文明に基づいた自治管理が、現地アボリジニにも有益だと信じて疑わなかったことである。
結果的に、欧州から持ち込まれた伝染病が先住民族間に蔓延し(彼らに免疫はなかった)、人類の一種族を死滅に追いこんだのだった。

このような背景は、アボリジニの少年の目には「憎むべき白人との戦い」と映り、一方の入植者側は「不潔で不気味な連中から自分たち英国人を守る」立場で語って両者の対立がほのめかされていたのが、次第に一方的な迫害の構図がはっきりと表れてきて、中盤以降はすんなりと読んだ。



作品そのものは、タスマニアアボリジニの絶滅を明記してもいないし、声高に当時の植民地主義、差別主義を糾弾するものでもない。
むしろ、現地アボリジニの深刻な状況などつゆ知らずにキリストの旗を掲げてタスマニアに乗り込む英国教養人の、おめでたいまでの愚かしさを、苦笑混じりに読むしかない辛辣な筆致で読ませる。
ウィルソン牧師もポッター医師も現地先住民のことなど端から頭にないのだった。正反対の性格描写が見事になされて事あるごとに対立するこの二人は、実は自己中心的で独善的なところはまったく同類なのだった。
彼らがアボリジニに直接手を下したわけではない。少数民族の運命にも実際的な関わりはなかった。だが、信仰を唱えつつも虚栄心、功名心を露わにする彼らの高慢な態度は、一つの人種を絶滅に追いこんだ当時の英国文明の自惚れを象徴しているのには違いない。
(もともと有色人が住んでいた地を白人の神が造ったエデンだと言い張り、また、その地エデンで大量虐殺が行われていたという壮大な皮肉!)
白人史上主義者やキリスト教至上主義者ばかりがタスマニアアボリジニを滅ぼしたわけではないのだ。そのことに気づかされると、これは文明の衝突と弊害を書いた過去の苦い話にとどまらないのだと思えてくる。間違いなく今の日本だって、こんな勘違いをする側に立っているのだから。



アメリカでは一九六〇年代まで黒人差別があったのに、イギリスではそうではなかったのが以前から不思議だった。ナチスユダヤ人迫害を阻止できなかったのも、こんな人類史的な禍根の後ろめたさがあったからなのだろうか。(ヒトラーに「おまえたちだってタスマニアで…」と言われたらチャーチルは何と応えただろう!)
世界一の繁栄を誇った十九世紀英国の汚点。野放図な偏見がもたらした取り返しのつかない悲劇。
ヨシュア・トゥリー”でいよいよ本格的に世界進出を果たしたU2がその映画『ラトル・アンド・ハム』のオープニング‘ヘルター・スケルター’の直後に‘ヴァン・ディーメンズ・ランド’を歌ったのも、何かそんな含みがあったのかと今さらながらに思う。
史実とフィクションを融合させて現代への教訓を織り上げてあって、読んだばかりの『神器 軍艦「橿原」殺人事件』とも共通点を感じた(そういえば、あの作品も語りメインで船が舞台だった!)。歴史は、こんなふうに小説として書き残されていく、一つの好例だと思う。

タスマニア人は文字を持たない民族だった。ということは、彼ら自身が遺した記録はこの地球上に何一つ残っていないということだ。そんなことがあっていいものだろうか……
それを征服した側の人間が書く。征服された側にも立って書く。感傷、批判、後悔と懺悔。しかし、一行たりとも言い訳めいた戯れ言だけは書くわけにはいかない。厳然としてある事実に対する著者の主観を排するためには一人称の証言スタイルで書くしかなかったのかもしれない。
もちろんこれは主に英国人に向けて書かれたものだろうけど、文学は、小説は、歴史に対してこんな役割も担えるのだ。そう考えると、始めに難儀したことも忘れて、じわじわとこの作品の凄さが増してくるのだった。