フィリップ・K・ディック / 高い城の男

2/17朝刊、バンクーバー冬季五輪の男子スピードスケートで日本選手二人がメダルを獲得したことを大きく報じる社会面の片隅に「ディックのアンドロイド」の文字が目をかすめた。
おや、何事かと見ると、翻訳家・浅倉久志氏の訃報記事だった。

昨年読んだ『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は最終戦争後の殺伐とした世界観を見事に伝えてくれる名訳だった。
いかに海外で評価が高くとも、他言語に書き換えたものがその通りの評価を得られるとは限らない。ましてやSFという限定的なジャンルの作品では、より厳しい目で見られることだろう。
どんな経緯で浅倉氏がディックの翻訳を担当することになったのかは知る由もないが(すごく興味があるのだが…)、『アンドロイドは〜』はディック=浅倉久志カップリング以外にはないと思わされた。

そして、この『高い城の男』の訳も良かった!(忘れていたけれどティプトリーJr.『たったひとつの冴えたやりかた』も氏の訳だった)
享年79才。浅倉氏の功労と偉業に感謝したい。数々の名作を届けていただき、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。


ハヤカワ・オンライン/ニュース:浅倉氏逝去



【フィリップ・K・ディック / 高い城の男 (399P) / ハヤカワ文庫・1984年(100218-100221)】
THE MAN IN THE HIGH CASTLE by Philip K. Dick 1962
訳:浅倉久志


・内容紹介
 第二次世界大戦が枢軸国側の勝利に終わってから十五年、世界はいまだに日独二国の支配下にあった。日本が支配するアメリカ西海岸では連合国側の勝利を描く書物が密かに読まれていた……現実と虚構との間の微妙なバランスを、緻密な構成と迫真の筆致で描いた、ディックの最高傑作!〔ヒューゴー賞受賞〕


          


昨年秋、星野智幸氏が自身のブログ『言ってしまえばよかったのに日記』でディックを再読しているという記事があって、「じゃ、自分も」と買った文庫本。他に読みたい新刊本があってタイミングを逸したままになっていたので、浅倉氏の訃報を機に読むことにした。


第二次大戦で勝ったのは枢軸国側/ナチスドイツと日本というパラレルワールドの設定。両国に分割統治されるアメリカの、日本の管理下にある太平洋岸が舞台。ドイツでの政変(ゲッペルスが首相に就任!)を機に、ナチスの対日工作が水面下で進められる。
日本の通商代表・田上、アメリカ人の工芸品店店主・チルダンと柔道の女性インストラクター・ジュリアナ、ジュリアナの元夫でユダヤ系工芸職人・フランク、イタリア系とされる元軍人・ジョー、ドイツ人の諜報部員・バイネスと領事・ライス他、登場人物の性格にそれぞれの国民性を色濃く反映させていて、背後の国家間の力関係がわかりやすい。また、太平洋岸は日本の緩やかな支配下にあるものの、ナチスの存在は実態のない恐怖として絶えず人々に意識されていて、先行き不透明な重苦しいムードに包まれているのもよく表現されている。



複数の登場人物たち(一人の主人公がいるのではない)それぞれのストーリーが同時進行していて、彼ら同士は直接深い関わりにはない。しかし、彼らの間には何らかの接点があって、けして散漫にならない。このあたりの書き分けが実に上手い。
アメリカ人と日本人は潜在的ナチスへの恐怖心を抱いていて、自身の行動の拠り所として「易経」を用いている。あらかじめ易を起て(占い)、「道」や「無」、「陰陽」などの禅と東洋思想へ傾倒することで、間もなく自分の身にも降りかかってくるであろうナチスの脅威を従容として受け入れる腹づもりもしている。
その易経と同じように彼らの間に密かに流行しているのが、連合国側が勝った世界を書いた(史実とは異なる形になっている)小説であり、別世界への儚い願望がその本に寄せられているのだった。
一方、ドイツ側の登場人物は膨張し続ける組織の末端にあって、官僚的な派閥間の政争に倦んでいる。

 「ミステリーじゃありません」ポールがいった。「まったく別の面白い形式の小説ですよ。たぶん、サイエンス・フィクションの分野に入るのかな」
 「あら、そうじゃないわ」ベティが異をとなえた。「だって、科学がありませんもの。それに舞台も未来じゃないし。サイエンス・フィクションは未来を扱うものでしょう?とくに、いまよりも科学の進歩した未来を。この本はどっちの条件にも該当しないわ」
 「しかし、もう一つの現在を扱っているからね。有名なサイエンス・フィクションでそういう種類のものはたくさんあるよ」


SF的設定でありながら、その社会と個人の関係を現代の一断面であるかのように描いてみせるのはディックならではで、三人称と独白が混然とした文体で社会状況と個人心理をわかりやすく、かつリズミカルに読ませる(ここが浅倉氏の翻訳手腕の真骨頂だと思う。中でも田上がチルダンから買った不可解なアクセサリーから暗示を得ようとする数ページは白眉!)。
押し寄せる巨大な政治的熱狂の圧迫感にさいなまされながらも、ごくささやかな個人的抵抗に衝き動かされる登場人物たち。それぞれがそれぞれの立場で一点の小さな風穴を開ける。ジュリアナはジョーと別れてひとり小説家〈高い城の男〉に会いに行く。田上はフランクを釈放させ、フランクは一度は投げ出した装飾品工房に戻っていく。



史実とは違う世界なのに、描かれる人々の不安感に妙にリアリティを感じてしまうのはどういうことか。考えてみれば、これを書いたのは勝った連合国側の作家であり、読んでいる自分は敗れた枢軸国側の人間なのであって、逆の立場のはずなのに、そしてこの小説設定とも逆なのに、共感できてしまうのはなぜか。
敗戦国側の人間として本作を小説内で読まれる小説になぞらえてみると、気づくこともある。
この作品は全編を通じて「真贋」と「史実性」が問われる構成になっていて、大枠としては偽の歴史を設定し、その作中にまた偽の歴史小説を用意して、偽の偽は真ではないことを示唆してもいる。
ローズベルトが暗殺されたときに持っていたライター。南北戦争時代の44口径のコルト。物に史実性という付加価値を与えるのが証書一枚だけであるのなら、我々が生きるこの世界はどのような保証によって形づけ、色分けされているのか。
本書の刊行は1962年。戦後アメリカの豊かな時代だったはずだが、ただ歴史逆転の奇想に寄りかかった作品なら、これだけ生々しくは迫ってこなかっただろう。となると、(今では想像できないけれど)やはり冷戦の緊張状態が土壌にあるのかもしれない。国家間の摩擦に否応なく飲み込まれてしまう個人の無力感を、ディック自身も強く感じていたのかもしれない。

果たしてジュリアナが逃亡を進めた作家は秘密警察の手から逃れられたのか。フランクはジュリアナと再会できるのか。日本に核兵器を使用するらしいナチスの「たんぽぽ作戦」は遂行されたのか。ドラマの前に物語は閉じられ、読者の想像に委ねられるのだが、最後は不思議とそれまでの不安感は払拭されているのだった。


続いてディック=浅倉氏をもう一冊、『ユービック』を読む。