エドワード・ケアリー / 望楼館追想

本書はマシュー・ニール『英国紳士、エデンへ行く』と同じく2000年の英国作品。カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』も同年刊。現代英文学の脈流は累々として途絶えることがなさそうなのは、日本の文学界とは大違いという気がする。


エドワード・ケアリー / 望楼館追想 (561P) / 文藝春秋・2000年(100228-0304)】
OBSERVATORY MANSIONS by Edward Carey 2000
訳:古屋 美登里


・内容紹介
 かつて‘偽涙館’と呼ばれた古い邸宅を改築した集合住宅‘望楼館’。他人の愛したものを盗み、蒐集する“ぼく”をはじめ、住人は奇妙な人物ばかり。人語を解さぬ‘犬女’、一日中テレビを見続ける老女、体液を流しつづける元教師…。ひっそりと暮らしていた彼らの生活が、新しい入居者の登場で波立ち始める。彼らの過去には何があったのか?人の魂の苦悩と再生を優しいまなざしで見つめ、圧倒的な物語の力で描き出す驚異の新人のデビュー作。


          


‘望楼館’の住人は七名。指折って思い出してみると、すんなり全員の名前が出てきて、主人公のみならず登場人物それぞれのエピソードがつぶさに甦ってくる。孤独で内向的な人たち。外の世界に背を向け望楼館にほとんど引きこもったまま静かな日々を送っている人たち。
そこへ新たに入居してくる人物があると知ってからの、彼らの動揺ぶりが可笑しい。ふだんは他の部屋の住人に無頓着なのに、男か女かも、若者か中年か年寄りか、どんな人なのかまだ何もわかっていないのにあたふたと相談を始めては「不歓迎」で意見は一致して、なんとか彼だか彼女だかを追い出せないものかと策を練るのだ。
その様子は子供の頃の、クラスに転入生が来るという噂を聞いたときの興奮に似ていた。だけど、彼らの間に期待感は端からなく、新たな隣人の出現は不安の種、災厄でしかないのだった。なぜそれほどまでに人との出会いを畏れるのか。
かつては必ずしも厭世的な人間ではなかった彼らの、痛ましかったり、おぞましかったりする過去が後から順々に明らかにされていく。



主人公のフランシス・オームは三十代後半の独身者で望楼館には老いた両親も暮らしている。いつも白い手袋をしている。蝋人形館で人形にまぎれて不動で立ち続ける仕事をした後、現在は公園で不動の芸を見せている。少年時代から二十年以上にも渡って、秘密のある蒐集を続けていて、地下室に展示してあるそれらはもうすぐ1000点に達する。
周囲の人間には知恵遅れと見なされていて(本人は否定)潔癖性であり、ある一点では異様に高い集中力を発揮する。ほとんど一人称の語りで構成されるので、そうはっきりと記されているわけではないが、ある先天性の障害を想像させる性向が示されている。
幼いとき、まったく声を発しなかった彼が一人の家庭教師によって言葉を教えられる、ちょっと『奇跡の人』を思い起こさせる挿話が良かった。(他にも、視力を失いつつある女が教会の聖ルチア像の両目を与えてもらえないかと祈る場面など、それ自体が一篇の魅力的な寓話に思えるエピソードが、たくさんある)
それでも、言葉で他人とのコミュニケーションを図ることを理解はしていても、彼の心は「物」にしか開かれないのだった。彼に打ち解けようとする「新たな住人」に当惑しつつ興味を惹かれているのに、やはり彼は防御を解かない。その頑なな閉じ具合ともどかしさが全編一貫した雰囲気を醸し出している。

 走りながら、ぼくは自分にこう言い聞かせていた― おまえはもっと速く走れると思うがな、そうじゃないのか?フランシス。できればもうちょっと速く走ってもらえないかな、フランシス。なんとかがんばれないか?なんとかやってみるよ。どうだ、このくらいの速さで。しかしこれが限界だ。


望楼館内の数室とフランシスの地下展示室、人形館と公園と背景は多くなく、場面転換も少ない。一人称の回想と現在進行の平行で物語は進展する。数幕物の芝居のような映像が浮かぶのは、舞台脚本も手がけるという著者の独創的な文体のせいだろう。読んでいるというよりは、登場人物の言葉に耳を傾けている感覚になってくるのだ。
巧みな語りの構成と怒濤の回想によって、現在の住人の暮らしを決定づけた過去の住人たちの記憶までが露わにされ(その断片がフランシスのコレクションに加えられている)、望楼館という共同住宅そのものが不思議な存在感を放つ生物のようにも見えてくる。
世捨て人の、傷負い人の集まる場所というメランコリックな癒し合いの場ではない。そんな生暖かな安息よりも、もっと冷淡で残酷な時間の支配下にあって、グロテスクだったりサディスティックな事件が起こるのに、柔らかなオブラートに包まれている感触がするのはなぜだろう。



読み始めてしばらくして、この感触は『くらやみの速さはどれくらい』に似ているのに気づいた。不器用だけど繊細。もの静かだけど胸中は必死。あちらはアメリカのSF作品、こちらはイギリスのファンタジックな作品で、米英の個性の違いも対照的なのに、『くらやみ』のルーと『望楼館』のフランシスの姿が脳内で結像してしまって、手放しで愉快な小説ではないけれど、個人的に楽しい読書体験になったのだった。
たしかに登場人物たちはフリークスに近い毒々しい人物ばかりだが(そしてもちろん、いかにも英国人っぽい連中だ!)、彼らを異形として偏見と好奇だけで読んでいたなら、中盤の、それまで無愛想だったはずの彼らの冗舌にはつきあいきれなかったかもしれない。最後の余韻もこれほど深いものにはならなかったかもしれない。

望楼館の住人は一人増えて八人になるが、やがて三人になってしまう。
自分が他者には(ときには身内にさえ)理解されないと知り、その事実を受け入れられるまでにはどれほどの葛藤があっただろう。ある者は公園で野犬と暮らすうちに自分は犬だと思い込み、ある者は望遠鏡の中の星々に自分の居場所を見つけようとする。
三者には自分の殻に閉じ籠って社会との関係を断っているように見えるけれど、そしてその姿を奇異で滑稽なものに見てしまうけど、フランシスにとっては他人の証明写真や住人の持ち物を集めた地下の展示室こそが社会の窓であり日常なのであって、そこはけしてヴァーチャルな世界なのではない。
それが彼なりにさまよった末に見つけた生の証しならば、偏愛の度合いを忘れて見れば、彼の姿は我々をデフォルメしただけであるようにも思えてくる。
だからこれは「再生」というよりは「解放」の物語だという気がする。実に小説らしい小説だった。