コニー・ウィリス / 航路

『犬は勘定に入れません』に続いてのコニー・ウィリス。時間旅行歴史SFにミステリとコメディ、それに英国趣味までも掛け合わせたごった煮的な作品だった『犬は〜』とは180度違うシリアスな内容なのだが、導入部からぐいぐい引き込まれて、二段組み上下800ページ超の長さをまったく感じなかった!



【コニー・ウィリス / 航路 (上413P、下434P) / ソニー・マガジンズ・2002年(100325-0331)】
PASSAGE by Connie Willis 2001
訳:大森望



・内容紹介
トンネル、光、天使、親族… 心停止から蘇生までの間に見る不可思議な世界。認知心理学者のジョアンナは、これらの臨死体験を科学的に検証するため聞き取り調査を行っている。そんな彼女の元に、化学物質を投与して擬似臨死状態を作り出す実験を試みる神経内科医のリチャードが現れた。彼の研究に参加することになったジョアンナは、被験者不足のため自らも実験台に上ることに。擬似臨死状態で彼女が見たものとは何なのか? 臨死体験とは脳が作る幻想か、あるいは「あの世」からのメッセージなのか? ‘死’の向こうにあるものは?驚愕と感動の臨死体験ミステリー。
ヒューゴー賞ネビュラ賞の最多受賞歴を誇るコニー・ウィリスの最高傑作。本作でも三回目のローカス賞を受賞)


          


読み終えてみれば、物語の骨格はいたってシンプルだし、登場人物たちはそれぞれ明確なキャラクターと役割を与えられていて、その配置もステロタイプだったことに気づく。主人公たちの会話には映画絡みの話題も多く取り入れられていて彼らのアンチ・ハリウッド、アンチ・ディズニー的な姿勢を匂わせているのに、でもこの作品の全体的な雰囲気はとてもハリウッド的な映像イメージに満ちている。
ただし、あくまで‘映像的’なのであって、実映像化は絶対にできそうもない。この小説の半分は臨死体験(NDE=Near-Death Experience)中の幻覚なのだから。それを文字で表現してみせたのが、この本。
トリップ体験や丹波哲郎の世界なら(誰も実際には見たことがないのに誰もが知っている気がする)ふわふわした天国のような宗教的な世界を書いとけば良い。だけど、小説としてのリアリティを獲得するためにコニー・ウィリスがNDEのモチーフに選んだのは………!!!



主人公ジョアンナ・ランダーはNDE被験者の記憶をファイルして、その中から共通のイメージを探り当てようとする。しかし、彼らの記憶は漠然として曖昧であり言語化するのは容易ではない。誘導を避け慎重に面接を行うのだが、彼らが語った体験は本当に見たものなのか、潜在意識にもともと刷り込まれていた‘死後の世界’の超自然イメージなのかを判別する作業も難航する。

臨死体験がなぜ、どんな脳の働きによってもたらされるのか。主観的な体験を客観的事実によって裏付けようと奔走するジョアンナに絡んで物語を放射状に膨らませていくのが、彼女の高校時代の英文学教師でアルツハイマーが進行している老人とその姪っ子、第二次大戦に航空母艦ヨークタウンに乗艦していたお喋りな男、昏睡状態にあって断片的な言葉しか発しない男など、過剰に冗舌か徹底して寡黙か、どちらかな人々(この辺もハリウッドっぽい)。
中でも後半の影の主人公ともいえるのが、心臓疾患で心停止を繰り返す、おませな少女メイジー。ほとんどベッドから出られない彼女は「ミニ暴走列車」であり「引き留めの天才(まだ行っちゃだめ!)」、そして歴史上の災害に異常に詳しい。幼い彼女がどうしてそれほどまでにサーカステントの火事や飛行船の墜落や火山流で死んだ人々に興味を持つのかを知ると痛々しくて切なくなるのだが、彼女の残酷悲惨な事故に関する博覧強記がジョアンナの研究に大きな助力になるのだった。
(全60章の冒頭に著名人の今際の言葉が付されている。第1章には― ゲーテ「もっと光を!」)

 「だいじょうぶですか、ライト先生?」もどってきた係員はまたリチャードの腕をとった。「だれか呼びましょうか?」
 ああ、とリチャードは心の中で答えた。カルパチア号を呼んでくれ。カリフォルニアン号を呼んでくれ。


第二部ではジョアンナ自身のNDEと彼女のメッセージを明らかにしようとするリチャードらの行動が平行してサスペンスタッチで展開され、三部ではメイジーのNDEと心停止の現実がスリリングに交錯して本を閉じることができない。
舞台となる、何故か直通路がない複雑な構造の病院とNDEの迷宮が脳内でこんがらがる。しかし先にインプットされていた災害や戦争の歴史上の事実が無軌道で冗長な無駄話だったのではなく、全てが伏線として機能していることに気づかされ、やがて混沌は解けて一筋の道に収束していくのを、見る。巨大な渦巻きに呑み込まれて溺れそうだったのに、気がつくと凪いでいて大きなゆるやかな流れの波間に浮かんでいるような…。



登場人物の造形はそれほど深くない。『犬は勘定に〜』でもそうだったように、それぞれの境遇をストレートに言動に反映させてキャラクターを濃くしていく。何よりもこの作品の魅力は会話のリズムにある。会話と独白(「そうでしょうとも。」)の絶妙な使い分けが人物に生き生きした生命力を与えていて、重いテーマを沈鬱な読み物にしていない。
本作での大森望さんの訳は海外作品の翻訳物臭さがまったくない。ディックの浅倉久志氏が良い意味で翻訳色が強いオールドファッションドないかにも海外ハードボイルドを感じさせてくれるのが魅力なのに対し、本作の大森訳は人物名だけ日本人名に変えてしまえば、そのまま日本人作家の作品として読めてしまえそう。
帯に宮部みゆきさんの推薦文が載っているが、彼女の長編を読んでいるときと同じゾクゾク来る鳥肌ものの興奮があった(たしか『龍は眠る』の中に「記憶は映像だ」という場面があったと思うが、感覚を伴うとはいえここで語られるNDEの記憶も主に映像である)。
記憶は書き換えられたり一部を失くしたりしながら更新され、並べ替えられる。そして統合もされる。ジョアンナは自分のNDEの記憶は無意識的に作話してしまったものではないかと疑う。ここは、自分の存在が歴史の齟齬を生んでしまったと思い込む『犬は』の主人公の姿に似ている。また、現実とNDE中の追体験の同時進行も、過去と現在の時間を往還して一人が二つの世界に同時に存在する(もう一方を虚構と断じることはできない)『犬は』のプロットに似ている。現実と(ウィリスの趣味と博識全開の)歴史上の事実の照合をミステリ風に展開していくことにページが割かれているのも。

久しぶりに眠れぬ夜を幾晩か過ごしたおかげで今週は寝不足気味… SFでありながら軸足は現代に置いてある。これがコニー・ウィリスの作品が読みやすく魅力的な理由なんだろう。