大森 望 / 特盛!SF翻訳講座

【大森 望 / 特盛!SF翻訳講座 -翻訳のウラ技、業界のウラ話- (270P) / 研究社・2006年(100402-0407)】


・内容紹介
 翻訳家になるのに免許は不要。でも、プロにはプロのワザがある。「悪訳を見抜くコツ」から「翻訳者の年収」まで、翻訳のウラ技と業界のヒミツを大公開。『SFマガジン』等に掲載した爆笑コラムに全体的に手を入れ単行本化。


          
          

コニー・ウィリス『航路』の訳が素晴らしかった「パートタイム翻訳家」(本書)大森望さんのエッセイ集。
1995年までの六年間に渡ってSFマガジンに連載された「SF翻訳講座」を中心にSF関連原稿に加筆修整して単行本化したもの。
06年刊行の本だが元原稿は90年代、大森氏が翻訳家として駆けだしの頃のものが多い。本書の最後の方にはコニー・ウィリスの長編『ドゥームズデイ・ブック』の翻訳に手を焼いて〆切が迫った日々のことが綴られている(SFマガジン七月号を開いたら、まだ500ページも残っているのに十月刊行の告知が出ていてビックリした件りには笑った)。大森氏訳の代表作といっても良いであろう『犬は勘定に入れません』や『航路』についての裏話も読めるかもと期待していたんだけど、それらは2000年代に入ってからの仕事なので残念ながら本書では言及されていなかった。
一般的な翻訳家ではないジャンル限定の《職業翻訳家》稼業とはどんなものかということを中心に、日本の狭いSF業界のこと(必然的に早川と創元社の話題が多い)や伊藤典夫氏、浅倉久志氏ら巨匠の名前も頻繁に出てきて興味深く読んだ。



著者が二十代後半〜三十代のまだ新進翻訳家の頃の文章なので、怖いもの知らずのずいぶんくだけた調子でいろいろなことを書いているのだが、中でも特に興味深く読んだのは、実際的な翻訳技術の一端を教えてくれる箇所。
「開く」(感じを使わないでひらがなで表記する)のか「閉じる」のか、人称代名詞の省略、会話の改行、カタカナ表記の選択(‘ハヤカワ表記’!…ミステリなのかミステリーなのか、ファンタジーなのかファンタジイなのか)など、「ヨコのものをタテにする」だけでは成り立たない、翻訳実務の一部がよくわかる。
英和翻訳に際しての不文律も多く紹介されていて、ふだん無意識に読み流している海外作品の文章が、翻訳の伝統のうちに洗練されて読みやすく工夫されてきたものであることをあらためて気づかされる。
また、翻訳者の個性は文章に反映されるべきか否か、原書著者の個性やクセをどう表現するか、英文にある訛りや方言をどう日本語訳で活かすのかなどの微妙な問題にも、まず翻訳者は透明な存在であることを心がけるべきとしながらも大森氏は自分の態度をはっきり書いていて気持ちが良い。
基本的には読みやすい文章をめざし、ページを開いたときに字面がきれいに見えるようにするにはどうするべきかがわかりやすく書かれていて、自分も参考にしたいことが多かった。

 しかし、これだけは断言できる。好きなSFのひとつもなくて、SF翻訳者になることはほぼ100パーセント不可能。そこにSF翻訳の特殊性がある。つまり、SFを好きで好きでしょうがない人たちが、外国語で読んだ面白いSFを、ほかのSFファンにも読ませたいと思って日本語に翻訳する― というのがSF翻訳の原点。翻訳SF出版がビジネスとして確立した現在も、基本構造において大きな変化はない。海外SFを出す編集者も翻訳者も、その大部分がSFファン出身。ファンがつくってファンが読む― この自己完結的な構造のおかげで、SF翻訳出版が数十年の長きにわたって、ひとつのジャンルとして命脈を保っているのだと言ってもいい。


海外文芸の「新訳」も増えたが、最近よく目にするのが「超訳」という言葉。海外作品のみならず日本の古典の超訳なんてのも出ている。この頃は洋画の吹き替え版にもこの言葉が使われているけど、このイージー志向は原語原文のニュアンスを正確に伝えてくれているものなのか、どうなのだろう。(少なくとも、正確に伝えようとする努力はされているのだろうか?)そこにどうせ読者(視聴者)にはわからないだろうという嘗めた態度はないだろうか?いい加減さの入りこむ余地はないか。
翻訳はれっきとした日本文化の一部だと思う。読みやすければ、わかりやすくすればいいというお気楽志向の下位互換の流れは築いてきた「翻訳文化」を衰退させるだろうし、プロ翻訳家の存在意義を薄くしていくことだろう。まったく、文化そのものまでデフレ傾向。なのに一方では小学校から英語教育を始めようというのだからつくづく変な国だ。
1960年前後の生まれの大森氏と同年代の翻訳者は多数いるというのに、それ以降、70年代80年代生まれの(有望な)翻訳者は出てこないと本書にはある。「名訳」なんて単語もそのうち死語になってしまうかもしれない。



最近では『文学賞メッタ斬り!』や文庫あとがき等で書評家として、『虚構機関』『超弦領域』等の編集者として、SFご意見番みたいなところで名前を見ることが多くなった大森氏。最新の『SFが読みたい2010年版』では‘SFアンソロジー編纂者’なんて肩書が付いている(最近はあんまり訳してないのかな?)
本書に書かれている大森氏のキャリアをかいつまんで言ってしまえば、少年の頃からのSFおたくが夢をかなえて翻訳者になったということなのだが、実は彼は京大卒、新卒で新潮に入社した、やはり根は優秀な人なのである。本人も強調して書いているけども、中高生の頃から原書を取り寄せてSFを読んでいたというのだからその熱中度はたしかにマニアックだが、でも勉学もしっかりやっていたのだろう(そこが凡人と大きく違う点)。でなければ京大なんて入れまい。
米原真理さんが書いていたように、良い翻訳者であるためにはまず日本語能力が高くなければならない。ジャンル小説ともなれば、問われるのはどれだけの読書量がバックボーンにあるかということで、そこからどれだけ自分の引き出しを持っているかが勝負になるのだろう。
おそらく大森さんの世代の多くは独学で試行錯誤の経験を積んで、自ずと翻訳技術を学んで身につけた世代なのだ。現在の方が英語の学習環境ははるかに体系化されて整っているのに、良い翻訳者がなかなか現れないというのも皮肉だけど、なんだかうなずける話だ。
おそらく『航路』のような名訳文に触れられる機会はこれから減っていくだろう。ちょっと大袈裟ではあるけれど、翻訳者の存在のありがたさをこれまで以上に噛みしめつつ、一冊でも多く読まなければと思った。