奥泉 光 / 鳥類学者のファンタジア

ピアニストという特異な人種を扱った本や映画を解説した青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』でもおすすめ本として紹介されていたこの本。
大戦末期の帝国海軍を禍々しくも滑稽に描いた『神器 軍艦「橿原」殺人事件』に続いての奥泉光作品。


【奥泉 光 / 鳥類学者のファンタジア (490P) / 集英社・2001年(100413-0417)】


・内容紹介
 柱の陰に誰かいる―フォギーことジャズ・ピアニスト池永希梨子は演奏中奇妙な感覚に襲われる。愛弟子・佐知子は姿も見たという。オリジナル曲フォギーズ・ムードを弾くと、今度は希梨子の前にもはっきりと黒い服の女が現れた。オルフェウスの音階を知っているとは驚いたわ。霧子と名乗った女はそう告げた。混乱した希梨子は、音楽留学でヨーロッパに渡り、1944年にベルリンで行方不明となった祖母・曾根崎霧子ではないかと思い当たる。そしてフォギーは魂の旅へ―。光る猫パパゲーノ、土蔵で鳴り響くオルゴールに導かれて、ナチス支配真っ只中のドイツ神霊音楽協会へとワープする。


          


(いきなりだけど…)ちなみにこの作品は『SFが読みたい!2010年版』ゼロ年代ベストSF[国内篇]にもランクインしている(29位)。タイムスリップものといえば確かにそうなんだけど、そこは奥泉光作品。べつにタイムマシンやら時間理論なんてなくても、猫がぴかっと発光すれば時空を超えて行っちゃうのは自在なのである。
主人公は地球を救うとか歴史を変えるとか壮大な野望に燃える科学者とかじゃなくて、三十代半ばのうらぶれた気ままなピアニストなので、突然自分の身に起こった劇的な状況変化にもなんとなく反応も鈍いまま五十年前のドイツに順応していってしまう。
どういうわけか彼女のピアノの弟子で利発でお茶目なところもある学生・佐知子ちゃんまでやって来て、1944年「戦時下のヨーロッパという巨大なテーマパーク」を二人して楽しんでしまうのであった。

 「先生はどなたについたんです?」
 「いろいろな方に。一番教えていただいたのはパウエル先生ですね。ほかにもエヴァンス先生やクラーク先生にも習いました」


この作品中で奥泉氏が書きたかったこと、というか、やりたかったことの一つは、クラシック音楽とジャズの違いを表現することだったのは間違いない。
作中のハイライトは、フォギーがやむをえずピアノを弾くことになるいくつかの場面。
タイムスリップした滞在先の夕食会の席上で、ひょんなことから彼女はその腕前を披露することになる。はじめは手短にまとめてさっさと終わらせようと考えていたのに、鍵盤を叩くうちにノってきて‘浜辺の歌’を4ビートの即興で展開していく。実質的にジャズなどアメリカ音楽(敵国文化)は禁制だったはずの1944年のドイツで当時最先端のビバップ風な演奏をしてしまうフォギーに文化的タイムパラドクスを気に懸ける心持ちなどさらさらなく、ますます大胆になってバド・パウエルみたいなプレイをぶちかましてしまうのだった。
一つめのこの場面は、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマイケル・J・フォックスが両親の卒業ダンスパーティで‘Johnny B Good’を弾き歌い、調子に乗ってエディ・ヴァン・ヘイレンばりのライトハンド奏法まで繰り出して会場をあ然とさせるあの場面を彷彿とさせた(笑)
最後にオマケ的に加えられたハーレムのミントンハウスでプレイするところもアノ人もコノ人も出てくるわの大盤振る舞いで楽しい。どうせならバードランドにすれば良かったのにと思ったのだが、調べてみたらバードランドのオープンは1949年だった。

一方、子供の頃から音楽の英才教育を受けて本場に渡ったフォギーの祖母・霧子が、実はピアノを弾くのが苦痛でしかないというところは、『六本指のゴルトベルク』に音大でピアニストを目指していながら実はあんまりピアノを好きではない学生がけっこうな割合でいると書いてあったのを思い出した。ピアノが嫌いなのに一日たりとて練習を休むことに不安を感じてしまうところも日本人ピアニストの症候としてぴたり霧子にあてはまるのだった。



もちろん、著者の趣味でもある音楽のことばかりでなく、ナチス神秘主義、枢軸国として同盟関係にあったベルリンの日本人コミュニティ、ロンギヌスの聖槍(『神器』にも出てくる奥泉氏お気に入りアイテム)や宇宙オルガンなど、壮大な幻想も絡まって話は肥大化していく。

フォギーはとうとう最後まで霧子に自分が彼女の孫娘であることを伝えられない。読んでいる間にはそのことがもどかしくてしかたがなかったのに、読了後これで良かったのだと思えたのは、もし孫であることが発覚したなら、それこそ歴史に齟齬を生じさせたかもしれないからで、フォギーはともかく霧子はその危険を薄々感じとっていたのではないだろうか。曖昧なところは無理に結論づけず曖昧なままにしておく、そのあたりの見きわめ、というか煙に巻くのが奥泉氏は上手い。「加藤さん=実は猫のパパゲーノ」問題もうやむやなままで小説は終わるが、べつにいいじゃん猫ってことでと思わされてしまうのだ。

なぜフォギーは霧子に会うことになったのか。何が彼女を過去に行かせたのか。
1944年のベルリンで消息を絶ったとされて歴史の波間に消えたひとりの女性の存在をたしかめる旅。
現代的で自堕落なジャズ・ピアニスト、フォギーと古典的芸術家タイプのクラシック・ピアニスト霧子はまったく対照的なのに、ところどころに疑いようのない血のつながりを感じさせて、「思い」を象徴する一つのオルゴールが海を越え時を超え、幻想を現実に見事にリンクさせる。

もしこれが、眠るのが大好きなフォギーの夢落ちだったとしても、全然かまわないのだ。霧子は空襲で死んだか非業の死をとげたというのが1944年の事実なのかもしれない。だけど、こうして二人が確かに邂逅したあとで、霧子は別の生を今も生きている。少なくともフォギーの胸のうちでは。それで良いではないか。
「思い」は届く。どんなに遠くでも、思うこと、思いを寄せられていることを信じさえすれば、互いの中で永遠に生き続ける。壮大な仕掛けの果てに幻視するのが、そんなささやかでセンチメンタルな事柄なのだが、逆に二人の別れの場面にぎりぎりのリアリティを感じさせられて不覚にも胸が詰まった。
「夢から醒めるには、より大きな夢を見るしかない」とは霧子の言葉。そうなのかもしれない。

 そうして、見捨てられた廃墟をあてどなくさまよう、見捨てられた人たちは、たまたま見つけたライブハウスの扉を開け、柱の陰から音楽に耳を傾けるのだ。
 この世界に廃墟じゃない場所はどこにもなく、生きている人間も、死んだ人間も、誰もが廃墟を旅している。旅人は疲れ切って柱の陰に座り込み、ふと耳にした音楽に慰められる。癒される。ジャズとは、きっと、そんな音楽だ。


「必殺子供のふり」佐知子ちゃんや、実は猫(?)な加藤さん他、愛すべき登場人物たちと並んで フォギーの窮地を救い案内人のような働きをする二匹の猫、バッハとパパゲーノ。猫はなんでも知っている、または、困ったときの猫頼みみたいな使い方はズルイと思いつつも、彼女らが登場してくればナチのオカルト集会も怖くはないのだった。
面白いんだか面白くないんだかよくわからないジョークを連発する奥泉氏の冗長な語り口は、海外長篇の読み応えに近いものがある。戦中ドイツを旅するフォギーの物語の語り手は現実の「私」自身であるという、その点だけをとっても実はアクロバティックなのだが、全然そんなことは意識させない巧みな話術に幻惑されっぱなしだった。

あと、蛇足ながら… 離婚した霧子は子供を手放して単身ヨーロッパに渡ったということから勝手な連想 ―霧子は中山可穂 『ケッヘル』の………、というのは深読みしすぎ?かとは思うが、中山さんもこの作品から絶対になにがしかのインスパイアは受けていると思う。
宙づり状態から落下してぶっ壊れたベーゼンドルファーは『パリ左岸のピアノ工房』で再生されて… なんて、昨年読んだピアノ本のあれこれが頭によみがえってきたりもした(笑)