中山康樹 / マイルスvsコルトレーン

思えばちょうど一年前のこの時期には『東大アイラー』にハマっていた。四月というのは自分のバイオリズム的にジャズへの関心が高まる時期なのか。偶然だとは思うけど。でも、秋になると必ず時代小説を何冊か読むのはここ数年の傾向として確かにある。このブログを何年も続けていけば、そういう自分の季節別読書傾向なんかもわかるかもしれない。


中山康樹 / マイルスvsコルトレーン (255P) / 文春新書・2010年(100418-0420)】


・内容紹介
 裕福な家庭に生まれ、人種問題にも積極的に発言したマイルス。クリーニング屋のせがれとして育ち、四十年の短い生涯を駆け抜けたコルトレーンモダンジャズの二大巨星は同じ1926年に生まれ、同じグループで腕を競い合った。ふたりの出会い、別れ、交錯する人生をマイルスの知己でもあった著者が綴る。共演ディスコグラフィー付きの愛蔵版!


          
    [PLAYBOY2006.8 特集/マイルスとJAZZの80年 監修は中山康樹氏]


マイルス・デイビスとジョン・コルトレーン。永遠にジャズ・ビギナーである自分からしても、帝王マイルスの名はほとんどジャズの代名詞でもあって、マイルス>コルトレーンのイメージは強く、当然マイルスの方が年長なのだと思いこんでいた。しかし、二人は同い年だった。
「スウィングジャーナル」元編集長でジャズ関連著作や寄稿も多い中山康樹氏にもその事実は意外だったようだ。
それぞれの評伝に同志として、ライバルとして、もう一方の名前は欠かすことのできない存在として必ず登場する。対立と確執に焦点が当てられることも多い。これまでにもこの二人に関する多くの研究書が書かれてきたが、本書はどちらか一方の側からもう片方を見るのではなく、二人を同世代人として並列してあらためてその融合と離反を見つめなおす。


二人の名前をvsでつないだタイトルになっているけれど、対決ムードを強調した内容ではない。
コルトレーンは1967年に四十歳で亡くなっていて、ほとんどの日本人リスナーは後追いで彼の音楽を追体験したはずだ。1991年、六十五歳で没したマイルスに比べれば圧倒的に遺された資料は少なく、記録の正誤はもはや確かめようがない。
生前のマイルスと親交があり、これまでにもマイルス本を何冊も刊行してきた著者は日本におけるマイルス研究の第一人者である。マイルスのことなら何でも知っている人だけに、本書ではマイルスについては自制を利かせ、とかくその音楽性も含めてとっつきにくい印象があるコルトレーンに関して薄くならないよう、バランスに配慮しているのが好ましい。

50年代60年代のレコードは現在のように本国リリースと同じタイミングで日本でも発売されていたわけではなかった。(これはジャズに限ったことではなく、たしかドアーズもデビュー盤より先に2ndが発売された) タワレコHMVなんて国内になかった時代のことであり(もちろんiTunesYouTUBEも)、そもそも洋楽に関する情報が少なかった。
そんな時代からジャズを追いかけてきた著者にしても、コルトレーンの音源をカタログ化するのは、ネットで簡単にデータベースを入手できてしまう現代人が考えるほど楽なものではなかっただろう(クレジットは当てにならないから演奏メンバーや前後のセッション、クラブ出演の記録と照らし合わせたりしている)。
それから、マイルスの強烈な印象。著者が直接触れることができた圧倒的な存在。その生々しい原色の記憶を排して、モノクロイメージのコルトレーンと並び立たせるのは思うほどに容易な作業ではなかっただろう。

 マイルスとコルトレーンは、革新的な音楽のみならず、その大胆な言動とパブリック・イメージに対する一種のマスコミ操作によって新たな黒人像を打ち出し、一般黒人の意識革命に拍車をかけた。二人に共通していることは「笑わない」ことであり、さらにマイルスは大きなサングラスをかけることによって神秘性を演出し、インタビューでは意図的に「白と黒」に言及した。


そんな当時のレコード事情の中で特に興味を惹かれたのが、マイルスのアルバムジャケットへのこだわりに言及したところ。
50年代までのジャズレコードのジャケットは、内容とまったく関係のない白人女性が写っていたりするのが一般的なことだった。マイルスはレコード会社が作ったデザインを断固拒否した。「なんでニガーのレコードに白人のあばずれなんだ」(!) 1961年のアルバム“Someday My Prince Will Come”で会社側の制作案に激怒したマイルスは、自分の奥さんをモデルとして起用したのだった。
で、似た話として思い出したのが『グリニッチビレッジの青春』に書かれていたボブ・ディラン“フリー・ホィーリン”のジャケット。スーズ・ロトロとディランが腕組んで歩いているスナップ写真。ジャンルは違えど、同じ時代に同じ変革の波が起きていたんだなあと、つくづく感じさせられた。
公民権運動が盛り上がりをみせた激動の60年代、「怒れる若きテナー」コルトレーンはよりスピリチュアルな演奏へと向かう。名盤“A Love Supreme(至上の愛)”はこの時代のサウンドトラックとしてとらえられることも多いという。
一方のマイルスは自身の音楽でことさらに好戦的なメッセージを訴えはしなかった。故に白人迎合主義者と黒人同朋に批判されることもあったが、一個人としては「黒人女性が表紙になることがない」という理由からPLAYBOY誌の表彰を拒んだりタイム誌のインタビューを拒否したりもしていて、それは黒人運動が活発になる以前からの態度なのだった。


黒人としては比較的裕福な家庭に育ち、ジュリアード音楽院にも一時は籍を置いたマイルス。やがてマイルスのセクステットに迎え入れられたことから飛躍を果たしたコルトレーン音楽史に燦然と輝く1959年の傑作“Kind of Blue”のあと二人は袂を分かち、それぞれの音楽探求に驀進していく。
マイルスはグループとしての調和を重んじ、演奏者としてばかりでなくオーガナイザーとして傑出していた。求道的に新たな表現を模索したコルトレーンは内省的、瞑想的なプレーヤーになっていった。新しい時代のうねりとともに二人の資質の違いが別々の道を選ばせたのがよく解った。

ただ一つ気になったのは両者のコメントの引用。すべてが中山氏自身の訳というわけではないのだろうが、マイルスの主語は「俺」、コルトレーンは「私」になっているのが(笑)。まぁたしかにコルトレーンを聴けば彼が「俺はよ〜」みたいな話し方をする男ではなかっただろうなとは思える。ギンギラギンの衣裳を着てギョロリと大きな目で睨めつけるマイルスが「わたくしは」みたいに丁寧語で喋るのも想像しがたい。せっかく二人のパーソナリティを偏見のない目線でとらえるのに成功しているのに、この訳し方の違いにはどうしようもなく先入観は反映されてしまっていて、やはり直感イメージは超えられないのかもと思ってしまった。
たしかに、自伝を読むとしたらコルトレーンよりマイルスの方が断然面白そうだと思うのは、ジャズ素人の自分ばかりではないだろう。


          
     [巨匠アーヴィング・ペン撮影によるマイルス‘ゴッドフィンガー’]

手探りでジャズを聴き、日本に紹介する仕事を続けてきた中山氏。先に読んだ翻訳家・大森望氏と同じく、ただ「これが好きだ」という情熱だけを燃料にその分野の開拓者となった人のパワーには頭が下がる。自宅にいながらにしてネットを介してあらゆる情報を入手できてしまう現在とは違い、彼らは独力独学で道を拓いてきたのだ。
体裁はただの巨人列伝のようだが端々に心のこもった仕事ぶりを感じさせるのは、対象への愛とリスペクトが伝わってくるからである。