ダグラス・ビーティ / 英国のダービーマッチ

1996年6月にEURO1996イングランド大会(‘Football Comes Home’)を見に行った。ハイドパークのホテルにチェックインするとロビーのテレビが、その前夜の歴史的な‘Battle of Britain(バトル・オブ・ブリテン)’イングランドvsスコットランドの一戦(ガスコインがスーパーゴールを決めイングランドが2-0で制した)と、その後のトラファルガー広場での両サポーターの衝突を繰り返し延々と伝えていた。
なんで一つの国なのにフットボールになると敵味方に分かれて流血の乱闘騒ぎにまでなるのか、いまだに自分には完全には理解できない、そして永遠に理解できないだろう英国の謎の一つ。
2012年ロンドン五輪のサッカーに英国四協会の統一チームを送りこもうという動きはほとんど黙殺されていて、実現の可能性はゼロに近いらしい。世論調査でも大多数が反対だった。母国開催なのに英国(GB)チームは出ない。たとえロンドンで開催される大会でもイングランド人と(またはスコッツと、ウェールズ人と)手を組むなんてまっぴらだ。そういうことらしい。
さもありなん。なんとも英国らしい話が満載の本書を読むと、それも納得できるような、できないような…



【ダグラス・ビーティ / 英国のダービーマッチ (338P) / 白水社・2009年(100425-0430)】
THE RIVALS GAMES by Douglas Beatie 2007
訳:実川元子


・内容紹介
 同じ街をホームタウンとして戦うサッカーのダービーマッチでは、互いに激しいライバル意識を燃やし、自分たちのクラブの正当性や優位性を謳いあげ、ときに暴力事件へと発展する場合がある。英国八都市の「熱き戦い」の歴史と今、「街とクラブとサポーター」の深い関係を現地取材した、力作ノンフィクション。
プレミア・リーグの実況アナウンサーとして人気が高い倉敷保雄氏からの推薦文を引く―「ひとつの街にあるフットボールのアンビバレンツを知ることは絵画を鑑賞する手助けのようなものだ。ご当地のパブに入って一杯奢らないと教えてもらえない情報がたっぷり。パブを二十軒はしごしたくらいの価値はある」


          


日本でダービーというと「清水−磐田」や「浦和−大宮」といった同県勢対決が思い浮かぶが、英国でいうダービーとは、同じホームタウンにある二つのチームの対戦を指す。都市対都市ではなく、一つの都市内の二チームの戦いである。
BBC記者である著者は、ふだん同じ街に暮らし、同じ学校で学び、同じ列車で通勤して同じ地区で働いている者同士が、ことサッカーになるとなぜ敵対視するのかを不思議に思っていた。いったい何が応援するチームを決めさせるのか。あるチームのサポーターになることが、すなわちライバルチームへの侮蔑と憎悪に直結するのはなぜか。丹念な取材から多くのサポーターたちの生々しい証言を集めて、ライバル関係の背後にある歴史と地域性を考察していく。
「妻とは別れるかもしれない。家族とは死別するかもしれない。友人関係は永遠ではない。だが、サポートするチームは一生変わらない」ダービーマッチを語る多くのサポーターは口をそろえる。
ロンドン北部のトッテナムアーセナルの両サポーターに明確な区分はない。かつてはカトリックプロテスタントで分かれたグラスゴーの両雄、レンジャースとセルティックに現在は宗教分派の影は薄い。マージー川の向こうとこちらに分かれるけれど、リバプールアンフィールドエバートンのグディソンパークはわずか4キロの距離にある。それでも、どちらに付くかがそれぞれのサポーターにとって重要なアイデンティティとして絶対に譲れないものになる。

バーミンガムの例は悲惨で、ほぼトップリーグに定着しているアストン・ヴィラと、昇格降格を繰り返す(‘エレベータークラブ’と呼ばれる)バーミンガム・シティFCの対戦は数年おきにしか実現しない。ゆえにダービーは必ず殺気立った雰囲気のものになる。無用な衝突を避けるために、パブが開店する前の時刻、日曜日の午前中に試合が組まれるという。
マンチェスターの場合は、ユナイテッドがもはや英国を越えた世界的なビッグクラブになったのに対し、近年のシティはときに降格も危ぶまれるローカルクラブのイメージを長らく払拭できないでいる。ライバルに大きく水を開けられた‘ブルーズ’はそれでも自分たちこそが街を代表する唯一のクラブで‘レッズ’は「金にまみれたインチキ野郎ども」だと息巻く。マンチェスターのスーパーではクリスマスシーズンには赤ばかりではなく、青い服を着せたサンタクロースの人形も並べられるという。



そうした対立の要因には宗教、労働者と中産階級の社会階層、地域を構成する移民コミュニティ(アイルランド人やナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人)の影響と差別が絡んだ歴史が一般的にはある。しかし、実はそうした差異は同一地区にある近親性の反動として強調されているにすぎないのではないか、と著者は問う。ライバル心をかき立てて自分たちの存在意義を誇張するために、それらを敵視の要因として機能させてきたのではないか。ダービーマッチは合わせ鏡のようなものだと記している。
実際のところ赤を着るか青を着るのかの決断は、物心つく頃にはとっくに親や地域の大人たちに刷りこまれていて選択の余地などないのだろうと思うのは、身近な例として、日本平に行けばエスパルスのジャージを着たチビっ子がわんさかいて、彼らが成長したある日突然磐田サポーターになると宣言するのはどう考えてもありえないからだ。

面白いのは、熱心なサポーターは自分のクラブの歴史をよく知っているものだが、それはとりもなおさずライバルクラブの歴史を知っていることでもあって、試合中に何十年も前のネタでチャントが叫ばれれば相手サポーターは即応して同じネタのチャントをやり返す。歴史をネタに当意即妙の応酬がピッチをはさんで繰り広げられる。そこにユーモアのセンスを見いだすのは彼らにとって心外なことかもしれないが、日本のスタジアムでは考えられない一種の即興芸のように思えてしまう。
一方が正当性を主張して優越感を誇示すれば、もう一方は屈辱を味わわせた相手を「恥知らずのクズ」と容赦なく罵る。120年も経てば(コナン・ドイルやH.G.ウェルズの時代から続いているのだ)その立場が何回か入れ替わるもので、終わりのない繰り返しに見えなくもない。それが往々にして泣いたり笑ったりの度を越してしまう場合がある、というのがダービーマッチなのである。

杉山茂樹氏はバルセロナFCは世界で二番目に愛されるチーム―世界中で地元のクラブの次に好きなチームとして挙げられるのがバルセロナ―だと書いていたが、そんな悠長なムードはここにはない。赤なのか青なのか、選択肢は二つであって「その他」などないのだ―たとえバルサのユニフォームが赤×青でも)



一世紀を優に超えるチーム創設時からの複雑な因縁と怨恨の連鎖は、日本の一クラブのサポーターとしては「勝手にやってろ!」という気分にもなるのだが、当事者にとっては真剣そのものの生死をかけた大問題なのである。そうして語り継がれてきた逸話の数々は他人事だから面白いのだが、でも、あらゆる些細なトピックも巻きこんで(何もないふつうの試合だったということはありえないのだ)継承される歴史の深さには、やっぱり、ちょっぴり羨ましい気持ちにもさせられてしまうのだった。
先日深夜にアーセナルのゲームを観たが、センターバックはソル・キャンベルだった。かつてトッテナムのキャプテンとして長らくチームを牽引した彼が、それだけはあってはならないはずの隣のアーセナルに電撃移籍したときの騒動も書かれていた。
やはり数年前のノースロンドン・ダービーでの記憶に新しい事件 ―ガンナーズの選手が倒れているのにスパーズはプレーを続け、ロビー・キーンがゴールしてしまう。その後試合は荒れに荒れ、監督同士が口汚く(あのベンゲル監督が!)罵り合う事態になった― についても、それぞれのサポーターの意見が紹介されている。
今のアーセナルにはイングランド人選手はウォルコットしかいない。ベンゲル監督以下、フランス人若手プレーヤーにセスク・ファブレガス(スペイン)、ファン・ペルシー(オランダ)、アルシャビン(ロシア)、ロシツキーチェコ)、ソング(カメルーン)らで構成した完全な多国籍軍。はたして彼ら選手たちはトッテナムに対してサポーターが抱くのと同じ特別な感情を持っているのだろうか?そして、クラブの歴史に無関心そうな外国人ばかりのチームをはたしてロンドンっ子が地元チームとして愛着を持つのか?と思うのは第三者的な余計なおせっかいなのだろう。七万人収容のエミレーツ・スタジアムは毎試合、チケットはほぼ完売なのだ。ガンナーズサポーターにしてみれば、選手個々ではなくクラブそのものが重要なのであって、スパーズに負けさえしなければ良いというメンタリティが勝るのであろう。



隣の憎むべきライバルとの抗争の歴史はそのまま英国サッカーの歴史に重なる。マンUの「ミュンヘンの悲劇」やリバプールブリュッセルの暴動」「ヒルズボロの惨劇」は近代サッカー史を語るうえでも重要な転換点として避けては通れない大事件だが、本書が稀有なのは当該チームの側のみならずダービーの相手チームサポーターがそれらの事件をどう捉えたかまで言及していることだ。

大局的には、ダービーという形でのライバルの存在が互いを競り合わせたことによって英国サッカーを繁栄させてきた一側面は否定できない。ただ、昨今は外国籍選手の流入や相次ぐ海外資本のクラブ買収によってチームは均質化の傾向にあるが、クラブ間の格差は広がっているという。そうして読んでみると、ダービーマッチの変容は英国社会の変化とも歩が同じであることに気づかされる。そして、あまりに直情的なサポーターの愚行は嘆きながらも、チームの独自性が年々失われつつあることに著者は一抹の寂しさも感じているようである。
ロンドンのポップとモダンばかりが英国なのではない。期待したとおりにサッカーを通して英国社会の縮図を見せてくれる好著。「パブを二十軒はしごしたくらいの価値はある」とはあながち大袈裟な言辞ではない。
女性ながらサッカー好きだという翻訳者の実川さんの文章も良かった。