長谷敏司 / あなたのための物語

タイトルが似ていることもあって、どうせなら二冊まとめて読んでしまえと『あなたの人生の物語』とセットで買った。Story Of Your LifeとStory For You。『SFが読みたい!2010年版』にて上位(2009ベストSF国内2位)を占めているのもOf Your Life同様。
果たしてこちらの方はジャンルを越えた作品として読めるだろうか。


長谷敏司 / あなたのための物語 (301P) / 早川書房(ハヤカワSFシリーズJコレクション)・2009年(100508-0513)】


・内容紹介
 西暦2083年、ニューロロジカル社の共同経営者にして研究者のサマンサ・ウォーカーは、脳内に疑似神経を形成することで経験や感情を直接伝達する言語―ITP(Image Transfer Protocol)を開発していた。ITP使用者が創造性をも兼ね備えることを証明すべく、サマンサはITPテキストによる仮想人格‘wanna be’を誕生させ、創造性試験体として小説の執筆に従事させていた。そんな矢先、自らも脳内にITP移植したサマンサは、その検査で余命半年であることが判明する。残された日々を、ITP商品化への障壁である「感覚の平板化」の解決に捧げようとするサマンサ。いっぽう‘wanna be’は、徐々に彼女のための物語を語りはじめるが…『円環少女』の人気作家が挑む本格SFの野心作。


          


これを読んでいる間にたびたび考えたのは、人間をコンピュータにたとえたら、ということ。脳はハードディスク?いやCPUか。心臓がハードディスクで神経系がメモリ。OSはメインがDNAだろうが、自分の場合、きっと好きな本もその一部だろうな。では肉体は…?

いずれにせよ、SFの主要テーマの一つとしてアンドロイドやロボットの「人間化」を書いた作品は昔からあって、コンピュータ全盛時代以前の作品にはそれぞれにロマンがあったものだが、最近は最新の科学や医学と結びつけることによって人工知能はよりリアルに擬人化されるようになってきた。
そうした作品を読んでいて気づくのは、テーマとは逆の「人間のロボット化」だったりする。人間並みに高められた知能と機能を有する人造人間に関わる主人公たちは(著者は意図していなくとも)必ず非人間化していくように見える。PCが一般的に普及しだしたこの二十年くらいの人工知能ものSFの登場人物たちは、1980年代までの小説の人物より薄情なことが多い。
それはたぶん書いている側がそうなのであって、PCに触れている時間が多くなるほど人間の思考はコンピュータ的な(デジタル的)思考に流れていくのではないか、と読書中にふと感じることがある。
たとえば、ここのブログに引用しようと作中の文章を入力していると、手書きだったらこの漢字を当てるだろうかと思うことがよくある。原稿をPCで書いてメールで入稿する作家は無意識に変換キーを叩き、意味が変わるわけでもないので校正でも目に止まらないのかもしれないが、そんな一字になんとなく違和感を感じることがある。
それを即座に現代人の心の荒廃だとか、ぬくもりの欠如だとかに結びつけるつもりはないけれど、まったく無関係というのでもない気がしている。
(そう書きながら自分もさっき、「をーかー」→「ウォーカー」に変換するよう単語登録したところだが)



本篇の主人公サマンサ・ウォーカーは代替神経の開発と研究をしているということだが、仕事の実際はコンピュータ・プログラミングである。大企業に成長した会社の創業者でもある彼女は独善的で協調性がなく傲慢とさえいえる性格で、流行りの言葉でいえば「ツンデレ」(?)。
その彼女が免疫系の病に冒され余命半年の宣告を受けてからの物語なのだが、ほとんど自宅と職場の研究室だけで時間を過ごす彼女に生活感はない。死を免れる技術を開発して成功を収めてきた彼女が唐突に直面することになった、自分の死。サマンサにはその事実が受け入れがたく、悪あがきともとれるような些細な抵抗を試みるのだが、いやおうなく病状は進行して彼女は衰弱していく。

これは「死」を描いたSFとして評価されているようだけども、自分には、死を克服するための研究をしている科学者サマンサが、それにしては「死」への想像力が足りないのではないかと首を捻りつつ読んだのだった。
もちろん、これを書いた者も現実に読んでいる者も自身の死は未体験なままなのであり、死を迎える恐怖や悔恨、苦痛や悲嘆はこのようなものかと考えることは可能だけれど、死を前にした実感として訴えてくるものは自分にはあまりなかった。



未経験ながら死というものを「こんなものではないだろう」と思うのは、自分にもこれまでに幾度か親戚知人との死別体験があるからである。それに日々のニュースやフィクションから、あらゆる死のパターンを日々見聞きしている。自分にインプットされている「死」のイメージ。特に小説上の数々の死と照らし合わせると、ここに書かれたサマンサの死への態度は、いかにも実体験に乏しいままの生の終末として頼りない。
彼女は貧しかった少女時代に著作権フリーの前世紀(二十世紀)の古典的名作群を貪り読んだという。書名は明かされていないが『夏への扉』や『たったひとつの冴えたやりかた』に夢見心地の時間を過ごしたことが匂わされている。
(本筋とは関係ないところで、この時代が小川一水『妙なる技の乙女たち』と同時代だということもわかる)
その本好きな少女像とサマンサ像が合致しない。彼女が読んだ文学作品の中には心揺さぶられる死だってあったはずだ。まだ若いとはいえ三十代半ばともなれば死とまったく無縁であったはずはなく、また人間なればこその肉体の衰えとその先にある老いと死への、準備とまではいわないまでも薄々の自覚もあるはずで、表面に出さずともそうした経験と思考を含んで大人としての人格の一部は形成されるのだと思う。ましてや彼女は経営側の管理職でもあり社員の生活を守る立場にもあるはずなのにまったくそういう自負はうかがえず、死を前にした取り乱しようは子供じみていた。

 世界に頼るもののない《彼》の烈しい情動が、コンソールに表示された。そして、《wanna be》が声を絞るように言った。
〈《私》は何の役に立てますか?〉
 輝かしくあるべき最先端科学の結晶の声に潜む卑屈さに、サマンサたちは苦笑しそこねた。《彼》は今も監視コンピュータに疑似神経信号の動きを逐一記録されている。その絶望は、内心の聖性を奪われたことへの糾弾だった。


死の恐怖と肉体の苦痛が淡々と描かれ、それ以外はITPという神経技術についての説明が作品の大半であって、物語性はあまりない。全篇に殺伐としたムードが流れ、身体に走る激痛や出血の描写も生々しいというよりは、どこか空疎に響く。突然死ではなく、余命があるだけ悲劇性は薄いはずだが、ひたすら自身の運命を呪いながらのたうつサマンサの姿はどこまでも閉じたままで社会性に欠けるところは『あなたの人生の物語』と同じ。いかに科学の発達した世界でも人間の方はさして成熟していないではないかと思ってしまうと、小説的な広がりを感じることができない。


それが……… 創造性試験体《wanna be》との最後の対話場面だけは格別に秀逸で(!)、この会話に持ってくるために作品の大半を抑揚のない重苦しい文体のまま運んできたのかと思わせられた。
おそらくこの結末にたどり着くために、著者は膨大な時間を未体験の死についての自問自答に費やしたことだろう。人工知能や人格の複製というSFテーマを扱うにあたって避けては通れない倫理の問題や莫然とした死のイメージに逃げることなくぶつかって、迷いも揺れもあますことなくそのままさらけ出した。最後の手段としてSF的跳躍を用いることもしなかった。その姿勢が「ただのSF」ではない迫力を最後の最後にもたらしたのだと思う。
おかしいのは肉体を持たない《wanna be》の方がサマンサよりも死に関する洞察が深いこと。研究室でサマンサだけを見つめつづけた仮想人格の学習成果が浅薄な主人の想像をはるかに越えて、それこそ「苦笑しそこねる」。
主人公の死には共鳴できなかったのだから、これは(自分にとっては)死を描いた作品ではない。最後まで読ませたのは、人間と人工知能の邂逅の行方だ。科学と物語、肉体とプログラムテキストの対比から奇跡を予感させたのは、小川一水『煙突の上にハイヒール』に収録されていたセンチメンタルな佳作「イヴのオープン・カフェ」に似ていた。
もしこの全般的に平板な文章こそが《wanna be》が書いた作品―‘あなたのための物語’という―だともう少し暗示されていたなら、受け止め方は違っていたかもしれない。