コーマック・マッカーシー / 越境

書店でハヤカワ文庫のコーナーをのぞくと、必ず目に留まるこの表紙カバー。なぜか内容とは無関係のイメージ写真なんだろうと勝手に思いこんでいた。

これが読んでみたら、、、! 『神なるオオカミ』のメキシコ版!?(書かれたのはこっちの方が早いが) 完全にオオカミ本だった!


【コーマック・マッカーシー / 越境 (675P) / ハヤカワepi文庫・2009年(100515-0521)】
THE CROSSING by Cormac MacCarthy 1994
訳:黒川敏行


・内容紹介
 十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。


          


四章仕立ての第一章がビリーと狼の物語。ビリーが父親と一緒に仕掛けた罠がことごとく見破られ、掘り返されているあたりは『狼王ロボ』そっくりで「そうじゃろう、そうじゃろうて」と頷きながら読む。しかし、この章に限らず作品全体の雰囲気はジャック・ロンドンの『火を熾す』に近い(『白い牙』よりも)。
人間に不服従な狼の姿を「気高い」と安易に表現するのは文明にまみれた人間側の勝手な奢りであって、アラスカの氷雪原や本書のメキシコ国境の山岳地帯では人間も狼も野生の一部でしかないことへの想像力を欠いている。

ビリーがなぜ狼に惹かれ、捕らえた狼を殺さずメキシコの山に帰そうとするのかはまったく書かれていない。一方、輪縄を狼の首にかけて締め上げ、木の枝を口に咬ませておいて狼の背に跨って鼻面を縛り上げる一連の動作は克明に描写される。ロープをどのように使って狼の自由を奪い抵抗できなくするか、句点の少ない長いセンテンスを連ねたその描写は熟達の職人の手さばきを解説したノンフィクションのようだ。精緻に記すというよりは曖昧な感情や感覚に頼る余地を与えないためにそうしているようにも見える。
ビリーの心情を書かないのと同様に、捕らわれた狼の態度に人間心理を重ねることもしない。そのときどんな感情がビリーと狼の胸にあったとしても、それはその後の彼らの運命にはどうせ関係がないことだ。少年と馬と狼が国境を越え荒野を行く。つかの間運命を共にしたとはいえ、どこまで行っても一個の人間と一個の獣なのであって、その距離が近づくことはない。ましてや魂の交感などありえない。いっさいの感情移入を許さない冷徹な、機械的とさえ言っていいかもしれないこのリアリズムへの徹し方は二章以降も最後まで貫かれる。
この独特の文体が物語の性格を決めたのか、この物語だからこの文体になったのか、それは分からない。少年と狼の運命は『白い牙』と同じような成り行きで迎えた場面でロンドンとは180度違う結末で幕を閉じる。やはりこれはこのように書かれるべきだったのかもしれない。

土地の狼たちはかなり以前から家畜を襲うようになったが人間に飼われている動物たちの無知さ加減は彼らにとって実に不可解だった。牛は血を流しながら啼きわめき高原の放牧場を大恐慌の態で駆け回って頭から柵に突っこみ支柱や鉄条網を引きずりながら逃げ惑うのだった。牧場の人間は狼が野生の獲物にはしないような残忍な仕打ちを牛にするのを知っていた。牛が狼たちの怒りをかきたてる。古い秩序、古い儀式、古い掟を踏みにじる牛が狼を憤慨させるとでもいう風だった。


両親を亡くしても少年の悲しみには一言も触れられていない。感傷に浸る間もなくビリーは生き残った弟のボイドと盗まれた馬を取り戻しに(宛てもないのに)再びメキシコに入る。その道中の兄弟の会話がおかしい。(会話部分に「 」は用いられない)
弟は兄に反発しながらもそれを口に出せず、つい不機嫌が顔にでてしまう。それを見とがめる兄。思春期の兄弟とはこういうものだよなと思わせる二人の噛み合わない会話は、この小説で唯一の家族的なものを意識させる部分だ。言いたいことはあるのに見知らぬ土地で唯一の相棒でもあるので、互いにぐっとこらえて旅を続けるしかないのだ。

やがて二人にボイドよりまだ年下の少女が同行するようになる。このメキシコの少女は名も知れず無口で身の上は不明なままちょっと得体の知れないところがあるのだが、余計な詮索は無用なのかもしれない。
村々で出会う老人たちの語りがビリーの孤独な道程の暗喩として大きな比重をしめるのだが、年月が経過したいつか、きっとこの少女もあの老人たちと同じようにアメリカから来た白人のことを語りだすのだろう。
ストーリーの大枠としての少女の登場や馬をめぐるいくつかの事件は荒漠としたメキシコ国境で野営するうちに何の予兆もなく唐突に起こる。ざらざらした粒子の粗い映像イメージが胸に焼きついて、読んでいるこちらの気持ちもささくれ立ってくる。



国境地帯のインディオの老人やジプシーたちのそれぞれの寓話は、この作品にマジック・リアリズム的な色合いを加えている。メキシコ人(スペインからの入植者)の迫害、革命と戦争、アメリカ資本の大農園の進出。土埃舞う廃墟の町。正気かどうかも疑わしい男たちが通りすがりの少年に問わず語りに聞かせる長い物語はどこまでが事実なのかは判然としないながらも、たしかに世界のありようの核心をついているようにも聞こえてきて無視できない。
中でも、山中に墜落した飛行機の残骸を荷車で運んでいく男の静かな語り口が良かった。どうしてこんな山道で飛行機なんか運んでいるのか?車座になって焚き火を囲み、リーダーの男の話にじっと耳を傾ける人夫たち。その輪に自分も加わっているかのように引きこまれる。薪木が火の中で爆ぜる音、虫の音、ときおり遠くに聞こえるコヨーテの鳴き声… 漆黒の闇夜に炎がゆらめいて男の顔の上を影が走る。
いったい何が人間を異端者、ならず者、世捨て人にするのか。まっとうな人生と彼らを分けるその境界線はどこにあるのか。それも神によって定められているのだろうか。
地図や名前の意味、正義の秩序と悪の無秩序、神の存在と世界の見え方。荒涼とした世界に取り残された人々は、冷酷な現実を悲運とは受け止めない。どちらに転ぶかわからない不安点な境界線上で、自分が落ちる場所を自ら決めたり望んだりはできないのを達観している。

さて最後に司祭が信じるようになったのは、真実はしばしばそれを真実だとまったく意識していない人々によって担われるということだった。そういう人々は実のあるずっしりと重いものを運んでいくが、彼らはそのものを意識の上に呼び出すための名前を知らない。彼らはそのような自分たちのありようを知らずに生きていくが、それこそが真実の策略であり戦術なのだ。そしてある日、服でも脱ぐようにさりげなく真実は平凡な魂の上に大惨事をもたらすのであり、その魂は永遠に変容してしまい、初めたどっていた道で悶え苦しみ、次いでそれまで知らなかった道へ移される。こうして変わってしまった男はいつ自分が変わったのかなぜ変わったのかを知ることがない。


狼を連れて越境したビリーは、三たびの越境で変わり果てた姿の弟を連れて戻ってくる。たしかに国境の南にはこちらとはまったく違う価値観があった。しかし、現実にはビリーはより苛酷な運命を背負いこんで生きていかなければならなくなった。なのに不思議と暗い絶望感は漂ってこないのは乾ききった文体のせいかもしれないが、彼が簡単に死ぬのを許されなかったのだとも思わされるからだ。虫けらのように死ねなかったビリーの旅はインディオの寓話と同じように、いつか語られるのを待っている物語たちの中の一つなのかもしれない。そこにどんな真実を含ませるかは、また語り手次第というわけだ。

戦争が始まったことを知ったビリーが入隊しようとするところから、これが1940年代始めの時代設定だということがわかる。日米開戦もアメリカ深南部の国境地帯では直接大きな影響はなかったらしい。現代では考えられないほど国境警備が緩やかだった時代だ。
メキシコからの不法侵入と亡命は今でもときどき海外ニュースで見る。アメリカのロードムービーには楽園として、楽観的な逃亡先としてメキシコはよく出てくる(カリフォルニアからアリゾナを抜けて…)が、このメキシコ国境は雪も降るし山賊も出て不条理な死がはびこる魔境のような土地だ。そのボーダーラインの「向こうとこちら」を描きながら人間のあり方をあぶり出す。意志や信念にかかわらず大きな力によって翻弄される人間の小さな存在と、それでもなお残る偉大な魂の遍歴。古典アメリカ文学にも通じる、実に読み応えのある作品だった。

原題は「THE CROSSING」=交差点。『越境』の分断よりは交錯がイメージされるが、では、何が交錯していたのかはまたこれから考えてみるつもりだ。