イーユン・リー / さすらう者たち

【イーユン・リー / さすらう者たち (381P) / 河出書房新社・2010年(100523-0528)】
THE VAGRANTS by Yiyun Li 2009
訳:篠森ゆりこ


・内容紹介
 文化大革命の終焉を迎えた1979年、中国の地方都市。一人の年若い女性が国家の敵として処刑された。友の無実を知るかつての同級生は、夫と幼い息子との幸せな家庭を捨て、友の名誉回復のため、抗議行動を決意する…ベストセラーの前作『千年の祈り』をしのぐ感動をよぶ、著者初の長編。


          


改革開放路線転換期の中国の新興工業都市反革命分子として逮捕されていた女性活動家・顧珊(グーシャン)の死刑が執行された。その死をめぐって小さな町に波紋が広がっていく。
当時の中国では珍しくなかったであろう反体制思想家の死を縦軸に、彼女の両親・顧(グー)夫妻と雑多な隣人たちが織りなす人間模様を淡々とした丁寧な筆致で綴っていく。

文革時代の実体験をベースに書かれた『神なるオオカミ』や『転生夢現』に比べれば、直接体験ではない時代を(著者は子供だった)移住したアメリカで英語で書いたという文章は洗練されていて、いかにもフィクショナブルではある。
体制に翻弄される民衆の非業を描こうとするのではない。当時の政治批判をしようとするのでもない。三十年前にこんなことがあったんだよ、と地方都市の小さな事件の顛末を伝える語り口は慎重で、北京で「民主の壁運動」が起こっていたこと以外には具体的な政治状況は遠ざけて、おそらくこの町の他でも公にされない似たような事件がいくつもあったことを想像させる。



同じ町に住む子供から老人、野良犬まで数組の住民たちのキャラクターはそれぞれの世代と階層の代表的人物像としての役割も与えられていて、丹念な生活感描写とともに情感豊かに描き込まれている。
とりわけその行方が気になるのが、生まれつきの障害を持ち醜悪な容貌の妮妮(ニーニー)という少女と、親の遺産のおかげで裕福だが「頭のネジがゆるんでいる」八十(パーシー)という青年の不思議な組み合わせのカップル。世間的には「はずれ者」として無視されているこの二人はちょっとフリークスの組み合わせのようでもあり、アメリカ的な発想にも思える。
不幸を絵に描いたような少女も、女のことしか頭にない能天気な八十(彼は狂言回し的な役どころでもある)も、どちらも思想や体制とはまったく無縁な存在のように見えて、しかし無関係ではいられない。無力な小さな存在にも体制の影は忍び寄ってきて、否応なく彼らの生活を飲み込んでしまう。
小学生の童(トン)は「批闘集会」(政治犯をつるし上げて糾弾する集会)に動員され、共産主義賛美の歌を歌い、政治犯の前で党のスローガンを連呼する。反政府集会の参加者を調べるために学校で訊問され、集会の日の親の言動を調べられる。
顧珊の死刑執行をきっかけに、平穏だった夫婦や親子、友人、住民間の関係にひびが入って変わっていく。大多数は関わりありになるのを恐れて沈黙を守ろうとするのに、体制側か反共か、態度の表明を強いる全体主義思想の怖さが控えめに表されているのだった。

 妮妮の父親はため息をついた。「言うのは簡単だけど、なかなかできることじゃない。命は命なんだし、俺たちは人殺しじゃないんだ」
 妮妮の目がほてって潤んだ。両親を埋葬するときが来たら、このお返しに父親の体は冷たい水ではなくお湯で拭いてあげよう。父親は一日にせいぜい三言ぐらいしか口をきいてくれないけど、もともと無口な人なのだから許せる。しかし、そんな救われるようなひとときも、父親がこの一言を言うと終わった。「それに、妮妮は金のいらない家政婦みたいなもんだろ」
 心の中で妮妮は火を消し、洗面器に氷のように冷たい水を入れた。


しかし、この作品は体制や思想の是非を問うものではない。むしろ、そうした状況設定を前提として、個人の意志のありように視点は置かれているように思う。
登場人物たちは並列され群像劇として描かれていて特に主人公はいない。あえて主人公を挙げるとすれば、十年後の天安門につながる予感を持たせるこの時代背景ということになるだろうか。
もう一つの背景として興味深く読ませるのは、生活感濃厚な中国社会の風俗。
特に、男児は望まれるが女児は厄介なお荷物として疎まれたらしい、生まれてくる子供の扱われ方。女の赤ん坊は生まれてすぐに捨てられることも珍しくなかったらしく、運良く捨てられないで育てられても十代半ばには嫁に出されてしまう。一人っ子政策の前だが、これは当時の体制ゆえなのか、中国の伝統的な習俗だったのか。中国=人権軽視と見なしがちだが、現代日本とはまず根本的な価値観が違うところがあることを、あらためて考えさせられる。
妮妮は一生結婚できない女として幼いときから実家の両親と妹たちの家政婦のような暮らしをしてきて、本人もそれを当たり前のように受け入れている。そんな彼女が(行動に問題があるとはいえ)八十に見初められて…という意外な展開は彼女なりの「反革命的」行動のようにも思えて、たくましくも見え、切なくもあった。



登場人物たちはどの人物もけっしてただ善良なだけの一市民ではないのも物語に奥行きを与えている。
一人娘を失ったことで顧夫妻は意見が分かれ夫婦仲が険悪になる。作品中、唯一の知識人階層で良心的中国人の象徴的存在でもある顧氏は前妻への手紙を書き続けるが、それらが全部当局に検閲されていることを知らない。顧夫人が反体制グループに近づいたのは母親としての怒りからなのか純粋な信念からだったのかはわからないが、ある意味で体制支持側と同じような洗脳が行われたのは想像がつく。その顧夫人に接触した市政府宣伝課の花形アナウンサー・凱(カイ)は順風に装った結婚生活を捨てて顧珊を擁護しようとするが、その動機は純粋なものだったかは疑わしい。顧珊は転向前は過激な毛沢東信奉者で紅衛兵として妊娠していた妮妮の母に暴力をふるっていたのだから、手放しで英雄扱いはできない。
必ずしも(当時の)反体制がすなわち民主的(あるいは自由、正義)だったとは簡単には言い切れない。その微妙なところを表現しえたのはフィクションだからこそという気もする。

建国から国家を見つめてきた老人たちと文革後の指導的立場にある青年層、そして子供たち世代。特定の目線でなく、三世代の目線で一つの時代を見つめているためやや薄味感は否めないが、逆にその分、日本人の自分にもそれぞれの人物に共感を持って読むことができたのかもしれない。
この作品は数カ国語に翻訳されて各国で出版されたとのことだが、中国本土では発行されたのだろうか。これにより著者の中国での立場が危うくなったりはしてないだろうか。自分には思想云々よりも著者の祖国への愛情がまずまっすぐに伝わってきたのだが。


続いて『千年の祈り』を読んでいる。