イーユン・リー / 千年の祈り

『さすらう者たち』と同じ篠森ゆりこ氏の翻訳。この方の訳文なら他の作家の作品も安心して読めそう。


【イーユン・リー / 千年の祈り (253P) / 新潮クレスト・ブックス・2007年(100530-0602)】
A Thousand Years of Good Prayers: Stories by Yiyun Li 2005
訳:篠森ゆりこ


・内容紹介
 離婚した娘を案じて中国からやってきた父。その父をうとましく思い、心を開かない娘。一方で父は、公園で知りあったイラン人の老婦人と言葉も通じないまま心を通わせている。父と娘の深い縁と語られない秘密、人生の黄昏にある男女の濁りのない情愛を描いた表題作ほか全十篇。北京生まれの新人による全米注目の傑作短篇集。


          


すんなりと入っていけた最初の〈あまりもの〉。二十ページ、十五分くらいで読んでしまったこの掌篇が見事で嬉しくなった。ハッピーな物語ではないのに、ただ淡々と悲哀がにじんでくるばかりなのに、その手腕に思わず膝を打って拍手したくなる。四月に亡くなったシリトー『長距離走者の孤独』の〈アーネストおじさん〉と同じような個人の善意が社会に拒絶されるお話なんだけど、シリトーの方はやりきれない怒りが渦巻いたのに対して、こちらはじんわりと水を吸う紙のように胸の内が潤ってきた。
最小限の短いセンテンスを連ねた文章には無駄な文は一行もなく余計な台詞もない。簡素ではあるけれどぎりぎりに削ぎ落とした不自然はこれっぽちも感じさせずにラストシーンがありありと目に浮かんでくるのは、読書ではなく、さり気ないマジックを見せられたかのような感覚。とんでもない大技はないが、しなやかな超絶技巧に触れてしまったような…
深い余韻に浸る、そんな掌篇ばかり十篇が並んでいる。

 「どうしてなの。いい人たちなのに」
 「いい人がいい運に恵まれるとはかぎらないんだよ。このことわざをおぼえてるかい。『不運はいつも善人を選ぶ』」


ゲイもいればキリスト教徒もいる。アメリカに移住する者もいる。スターバックスインターネットカフェも出てくる。株取引所は老人たちの憩いの場としていつもごったがえしている。自由化と高い経済成長がまた社会の多様化に拍車をかけているのは日本にもよく伝えられるところだが、でも共産党一党独裁体制は変わらずそのままなのが自分には不思議でならない現代の中国。
文革後に解禁された西欧、とりわけアメリカの文化と情報に触れた中国人の内心の混乱はどんなものだったろう。戦後復興と発展の過程の日本人が感じたのとはまた違った衝撃があったはずだ。
この短篇集の登場人物たちはみな基本的には一般庶民で、現代流の、文明の恩恵を疑うことなく享受して普通に暮らしを営んでいるように見える。しかし、どこか心に病んでいるか傷ついているかの痕跡があって、無条件に健康ではないところを感じさせる。
国民から市民、そして個人へと主体性が移って体制の‘わかりやすさ’が薄れた分、今の中国の人々はより個人的な物語を生きるようになっているのだろう。〈あまりもの〉の最後は老女の孤独とともに、他者に無関心な社会も浮き彫りにしているのだった。



社会変革のねじれは現代的な若者(いわゆる‘80後世代’)と文革期の苦難を体験してきた大人たちとのギャップに投影されていて、特に親子関係にストレートに反映させられている。お節介で口やかましい親は古い価値観の代弁者のようで、とりわけ息子・娘の結婚に口をつっこみたがる親を子供たちは疎ましく感じている。
一足早い発展を遂げた日本が完全に世代間の伝達を失敗した(戦争責任から年金問題まで含めて)のと同じような弊害が中国社会にも起こりつつあって、著者は敏感にそれを察知しているのではないかと思う。
『さすらう者たち』でもそうだったが、その親たち世代を書くのがイーユン・リーは上手い。自分より上の世代を魅力的に書けるかどうかは作家の力量を測る一つの物差しだと思うが、彼女の描く年配の中国人たちはことごとく良い。彼らが青年若年層の登場人物より個性的なのは、ただ背負ってきた歴史的背景の違いによるものだろうか。
彼らは頻繁に中国の故事ことわざを口にする。それは共産党のスローガンとは別の、もっと古くからあるもう一つの中国を代表する心のようなものだ。会話にぽんとはさまれることで立場も世代も越えて両者を同じ中国人へと回帰をうながす作用があるのだった。
障害のある子供を隠して暮らしてきた夫婦が互いへの愛情ゆえにすれ違っていく〈黄昏〉。代々朝廷に宦官を送りこんできた町に生まれた英雄的人物の没落を通して長大な歴史の断絶を語る〈不滅〉。この二篇は著者三十代にして早くも老成した大家のような文章を愉しむことができる。
〈正しく死を語るためには〉と表題作〈千年の祈り〉には著者の自伝的要素も織りこまれているようで、母国語ではなく英語で小説を書く理由もほのめかされている。

 わたしは自分のおかしたあやまちを二回認めなくてはならない。まず母に、それから乗客みんなにわたしの声が届くよう大声で。すると母はその話題をやめ、乗客はわたしのほてった顔から目をそらす。わたしは一人で好きな歌を口ずさみながら、サンダルを見つめる。「共産党に歌います。党は母より大切なもの。母がくれるのは体だけ。魂くれるのは党なのです」


各話それぞれの夫婦関係、親子関係はどこまでも生活の実感に添った描写がなされている。そのうちどこかで一つ、著者は発火点を用意して静穏に見えた関係に齟齬を生じせしめる。その転換の手際が鮮やかなだけに逆に上手くまとまりすぎているように感じられもするのだが、それにしても著者はいったいどのような文学修行の末にこんな芸当を身につけたのだろう。

最近の中国は芸術分野にも多くの人材を輩出しているが、たとえばピアニストの(ユンディ・リはともかく…)ラン・ラン(郎朗)などはいかにも中国製促成栽培を思わせて、これはクラシック・ピアノと似て非なるものではないかと疑いたくなる(映画『のだめカンタービレ』のピアノサントラを担当したのは彼らしい)。
渡米して英語で創作を始めたイーユン・リーの、これがデビュー作。Made in CHINAではなく、from CHINA。漢語で書いたなら対象へのこの適度な距離感は出せなかったかもしれない。母国を離れて第二言語を使ったからこそ、英語の薄いフィルター越しだからこそ、先人への敬意と自身のアイデンティティの表明が初めて可能だったのだろうか。異国の地にいるからこそつのる祖国への想い。その屈折が表れるのは許さず、ままならぬ現実に少量ずつのセンチメンタルとノスタルジアブレンドすることに集中する。進化を続ける中国を出たことでイーユン・リーは‘中国的’精神を継承する最後の世代の書き手になったのかもしれない。
これからアメリカでの生活が長引けば作風は変わっていくのかもしれないが、いつかまた中国に大きな変革のときが訪れたら、そのときには『さすらう者たち』とこの『千年の祈り』は古典化するような気がする。