マーク・ローランズ / 哲学者とオオカミ

『越境』でひさびさにオオカミ魂に火がついた。他にも読みたい本はたくさんあるけど(『天地明察』も早く読みたい)、ここから一気怒濤の(…でもないが)オオカミ本三連発に行く。
まずは四月の刊行と同時に早くも“本年度オオカミ本屋さん大賞最有力”の呼び声も高いこの本だ!


【マーク・ローランズ / 哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン (276P) / 白水社・2010年(100604-0609)】
The Philosopher and the Wolf by Mark Rowlands 2008
訳:今泉みね子


・内容紹介
 大学で現代哲学を講じる気鋭の哲学者がオオカミと出会い、その死を看取るまでの十年に及ぶ共同生活を伝える驚異のレポート。野生に触発されて著者は思考を深め、人間についての見方を一変させる思想を結実させる。


          


翻訳が今泉氏だったので確かめてみたら、やっぱり『オオカミと生きる』の方だった。彼女は白水社のオオカミ担当なのだろうか?(笑)


アラバマ大学の哲学講師をしていた著者ははじめは犬を飼うつもりだったのに、偶然の成り行きからアラスカ産の子オオカミを衝動買いしてしまう。ウェールズ語で王を意味する「ブレニン」と名づけた雄オオカミの仔の生命力に著者はたちまち魅了されていく。二十代半ばから、ブレニンとのかけがえのない十年が始まった。
ブレニンに人間社会でどう行動すべきかの説得を繰り返しながら決めた唯一のルールは「あなたが行くところにはわたしも行く」。一人にするとすぐに退屈して家中の家具を遊び道具にしてしまうために、彼はどこに行くにもブレニンを連れて行くことにした。大学の授業にもブレニンを出席させ哲学の講義を聴かせる(ほとんどの学生同様にブレニンも退屈そうだったが)。ラグビーの練習にも連れて行く。ありあまるエネルギーを消費させるために一緒に数時間もジョギングし、レストランにもバーにも連れて行く。そうしてほとんどかたときも離れることのないオオカミと人の濃密な年月が重ねられたのだった。
イヌとはまったく違うオオカミという動物との生活を通して、著者は哲学において人間だけの優れた特長とされてきたものが、実は悪意に満ち利己的で権力欲の強い‘サル’的な精神構造の結果であることを発見し、新たな人間観を獲得していく。

 そこにはもちろん、わたしにはまねのできないような一種の美があった。オオカミは最高の形の芸術であり、オオカミがいると、精神が高揚しないではいられない。毎日のジョギングを始めるときに、どれほど憂鬱な気分であっても、静かに滑空する美しい姿を見ているうちに、必ず気分が良くなり、元気が出てきた。もっと重要なのは、このように美しいもののそばにいると、少しでもこれに似たいと思わないでいられない、ということだ。


まず第一に、本当にオオカミを飼えるのか、本来野生の群れにあるべき動物をペットにするのは虐待行為ではないのか、という疑問が当然浮かぶ。人間とオオカミの共生なんて不自然なことではないのかと。
知的で環境意識が高いと自負する人々が口にしがちなこうした問いに著者は「では自然とは何か。あるべき野生とは何か」を逆に問う。人間が無批判に論拠としてきた前提条件に疑問を投げかけ、オオカミを育てるというのなら鎖につないで安全な隔離した場所で飼育するのが当然だとする考え方にこそ、人間のエゴがひそんでいて不自然なのではないか(自然に対する理解が表面的に過ぎる)と一蹴する。
オオカミを飼うことは可能である。ブレニンの場合、首に縄をつけて著者の足取りに合わせて歩くようになるまで十分とかからなかったという。(もちろん正しい訓練方法−ケーラー・メソッド−に則った上で) 縄を解いて著者の後ろについて歩くようになるまでにもさして時間はかからなかった。放し飼いにしていても著者以外の人間には基本的に無関心で、敵意をあからさまにする大型犬以外の他の生き物に危害を加えたことは一度もなかったという。
イヌは訓練的な課題をこなす能力が高く、オオカミは問題解決に能力を発揮する。棒きれを投げてもブレニンは興奮して走って取ってくるようなことはしないし、「お手」も「おすわり」もしない。知能の発達プロセスが違うのだから、これはどちらが「優れている」ということではない。同じように客観的な共通の基準のなお人間とオオカミを比べても、ある一部分ではどちらかが「優れている」ということは言えても、それを全面的な優位に位置づけようとするのは人間の短絡でしかないと説く。



草原の同類の群れで生きることが動物にとっての唯一の幸福だとの見方にも、著者は動物の知能や柔軟な環境適応能力への過小評価だとして反論する。そして、そうした無意識的に人間の優位性を示そうとする態度こそ傲慢な‘サル’の考え方なのだと批判する。もちろんここでも「では幸福とは何か」と問いながら。人間もオオカミもそれぞれに‘自然’のあり方は違っており、幸福の意味だって違う。分け与えられたカードの使い方に違いがあるだけなのだ。
ブレニンは受け取ったカードを有効に使った。そして、おそらくは幸福だったと著者は語る。
オオカミの存在を間近に見つめながら、著者は哲学者らしい思考をめぐらしていく。西欧の哲人の思想が人間以外の存在を矮小化しようとするところから人間を規定しようとするものなら、臆せず批判し、自論を展開していく。

(それが著者の本来の仕事なのだが)全体の半分ほどは哲学的論考にページが割かれているから、自分も集中力を保ってスイッチを哲学モードONにして読まないとすぐ眠くなってくるのだが、付箋紙を貼りまくりながら、なんとか頑張って最後まで読んだのだった。
難解というよりも、哲学独特のくどい言い回しの連続で読んでいて混乱してくることもあって、正直に書けば、全部しっかり理解できたとは言い難い。それでもニーチェの「永劫回帰」をブレニンの生に当てはめて人間とオオカミの時間と瞬間の概念を考察した部分などは納得できたし、哲学的な思考法に触れることは新鮮で、ただ文字を追うだけの読書とは少し違う経験ができたと思っている。 
(『超訳 ニーチェの言葉』が売れているそうだが、部分的に一文二文抜き出して、しかも「超訳」して(笑)、そんなのでいったい何がわかるというんだろう?)

 前の節で述べた話が真実だと仮定してみよう。人間は死ぬときに、あるいは何らかの形で終わりを迎えるときに、他の動物よりも多くを失う、という話が真実だと。死が人間に起こった場合には、オオカミに起こった場合よりもより大きな悲劇なのだと。誤っているのは、ここから、人間の生命はより優れているという結論を導き出すことである。わたしたちが死ねば他の動物よりも多くを失うからといって、それがわたしたちの優秀さの指標にはならない。その逆で、これはわたしたちの破滅を解く手がかりである。


生物学的にオオカミの生態を記録した本ではない。オオカミを飼った珍しい体験への好奇だけで読める本でもない。人間の普遍の真理とか存在の定義を導き出すにはこの事例はいささか特異な感も否めない。
オオカミという稀少な野生動物を無許可で飼うこと(しばしば著者はイヌだと主張しなければならなかったし、アメリカからイギリス、アイルランド、フランスへと検疫を通過させるのにも苦労したはずだ)、著者が仕事に拘束されない時間を持てる職にあったこと(大学講師という仕事柄可能だったこと)、オオカミとイヌ二頭を放し飼いの状態で暮らせる住環境があったことなど、著者が一般的とはいえない数々の幸運、特権に恵まれていたのは事実である。それと、このオオカミが並はずれて賢い個体だったのではないか、とも思う。
ブレニンにとって著者との生活が本当に自然なものだったといえるかどうかは実のところはわからない。だが、それは著者とても同じで、彼は彼で文明的で社会的な生活の安定はいっさい投げ出したのだ。実際には生活上の困難や近隣とのトラブルも多かったはずで、次第に彼は人間嫌いにもなり変わり者扱いも受けたとも思うのだが、そんなことはいっさい書いていない。
文明の中のオオカミと、野生の中の人間。ブレニンに異例を強いた分、おなじだけの異例を著者は自らに課し引き受けるバランス感覚を持ち、それを最後まで放棄することはなかった。ブレニンとのルールは守りとおした。そのために失ったものだって少なくなかったはずだが、そんなことはさして重要ではないと考えるだけの強さを得た。そうしてオオカミの生き方から人間の哲学にまとめてみせるのだから、やはりこれは人間の優れた特質を示した仕事の一つであることを認めないわけにはいかないだろう。
もし、ブレニンをオオカミ本来の姿ではないと批判されれば、著者は「ではオオカミ本来の姿とはどういうものか」と問い返すに違いない。自然のオオカミなんて人間が本当に知っているわけはないのだから。(でも俺は知ってるけどね、オオカミ族なんだから)

「愛・死・幸福についてのレッスン」という副題は著者の講義のことではない。ブレニンが著者に学ばせた、かけがえのない授業のことなのだった。