丸山直樹、他 / オオカミを放つ

6/5の二つのニュース。イノシシやシカを狩っていた猟友会メンバーの男性が仲間を誤射したあと自殺(京都・福知山)。山菜採りをしていた女性がクマに襲われて死亡(帯広)。
こういう事件を耳にするたび、山にオオカミがいないからこういうことになるんだよ、とついついオオカミ族的(=勝手な)想像をしてしまうのだが…


【丸山直樹、須田知樹、小金澤正昭 編著 / オオカミを放つ―森・動物・人のよい関係を求めて (200P) / 白水社・2007年(100610-0614)】


・内容紹介
 日本のオオカミが1905年に絶滅して以来はや一世紀。天敵不在で増えすぎたシカによる森林・田畑の被害の声は、日本各地で絶えることがない。また奥日光ではニッコウキスゲシラネアオイが危機に瀕し、はては尾瀬でもミズバショウが食害にあっているという。2005年11月、野生生物保護学会で「日本のオオカミ絶滅百年シンポ」が開催され、日本オオカミ協会に集う第一線研究者から若手フィールドワーカーまでが最新の研究・調査を発表した。天敵不在下でのシカによる森林生態系への影響、オオカミの食性、オオカミと人との共存、の三分野をめぐる成果をもとに本書は広く一般向けに書き下ろされた。オオカミ復活に賛成の人にも反対の人にも送る問題提起の書。


          


日本にオオカミがいなくなって一世紀以上が経つ。捕食者がいなくなった森林はどうなっていくのか、実例として奥日光・尾瀬の実態が紹介される。
近年の暖冬傾向もあってシカの活動範囲は年々広がっていて、かつては生息しなかった尾瀬でシカが目撃されるようになったのはここ十数年のことだそうだ。国立公園内の特別保護区であり天然記念物指定されている地域でもあるので、狩猟によるコントロールもできないのだという。
行政の対策としては数キロにも及ぶ電流柵を立ててシカの侵入を防ぐしかない。これはシカ以外の中小動物の生態系への関わりをも阻んでしまい、ただシカの食植被害を減じる以上の二重三重の悪影響が懸念されるという。
ある種の絶滅とある種の増殖が共生関係にあった生態系ピラミッドをどう歪ませるのか、とてもわかりやすい。

おもしろいのは、主著者の丸山、須田両氏はもともとはシカの研究者だったとのことで、シカの生態について(もしかしたらオオカミより)異様に詳しく語られていること。こちらは「だからオオカミの導入が有効なんだよね」という結論は分かって読んでいるので、「〜である。」の断定口調の文を五つも六つも連ねられるとシカの有罪宣告を聞かされているようで(笑)なんだかシカが気の毒にも思えてくるのだった。



尾瀬の湿原地帯にはシカ道がいくつもできて、踏み固められた地面は次第に乾燥し、これまで存在しなかった植物が群生し始める。草花が食べられてしまうのでハチやチョウによる受粉活動も減って植物体系に異変が起こっている。
読んでいて思い出すのは『神なるオオカミ』の内モンゴル自治区。オオカミを駆逐した結果、草食獣が爆発的に増えて遊牧民の牧草地帯だった広大な草原が一気に砂漠化してしまった。それでその砂が今やはるばる日本まで飛んで来るのだ。(それに比べれば尾瀬の被害はまだまだ小さいと思ってしまってはダメなんだけど)
オオカミが絶滅したのは明治時代後期。まだ自然科学的な考え方なんてなかった時代だろう。環境保全の概念すらなかったのではないかと思うが、その無知のツケが百年たって顕在化しつつあるのだ。
現在では誰もが「美しい自然を後世に残そう」と言う。ではわれわれはそのために何をしているか。ゴミ袋を減らすとかエコカーとかエコポイントだとか、それって本当に未来のためになるのか。

 こうした人たちは、危険な動物を復活させるなんてとんでもない、と主張する。こういう益害論的な自然観が、嫌な動物、危険な動物、邪魔な動物は絶滅させても良いのだという考えに結びついて、オオカミをはじめとする多くの野生動物が滅ぼされてきた。このような自然観は昨今の自然人間共生思想と真っ向から対立するのだが、困ったことに、邪魔者は殺せと叫びながら、自然との共生には賛成という人も多い。


シカとオオカミの生態が紹介されたあと、後半はアメリカ・イエローストーン国立公園での事例を紹介しながらオオカミ導入に関しての疑問に丁寧に答えていく。
オオカミが人を襲うことはないのか。逆にオオカミが増加して他種を絶滅させることはないか。自然保護といいながら外来種のオオカミを移入するのは矛盾ではないか(もともとニホンオオカミハイイロオオカミの一亜種だった。トキやコウノトリは外国産を輸入して放鳥した)。
そうした不安視する声には多分に日本人独特のオオカミ観があり、誤解と偏見が根強いことがうかがわれる。
シカが増えたのも自然なのであり、現在の自然に人為的に介入するべきでない。人間の手によってオオカミを持ち込むのは自然に反する行為だと主張する現状肯定派も意外に多いらしい。
では、明らかにいびつな状態のまま放置することは自然なことといえるだろうか?環境の悪化を阻止しようとすることは反自然的行為なのだろうか?
まさに先に読んだ『哲学者とオオカミ』と同じような考え方で議論が展開されているのが、自分にはちょっと嬉しかった。

 そのときに「それでもやはり、オオカミとなれば話は別だ」と思わずにいられないとしたら、我々はその理由をもう一度よく考えてみる必要がある。古い西洋の童話的先入観にしばられていないか。オオカミの真の姿を知らないにもかかわらず、咬傷事件をおこすイヌと同じと決めつけてはいないか。人の無自覚・無責任な行動が、オオカミはじめさまざまな動物を害獣に仕立て上げていることを忘れ、物言わぬ動物自身にその罪を負わせていないか。


自然界のオオカミをはじめとする肉食動物は、ただ動物を食うだけではない。病原菌を持つ衰弱した個体を優先的に食べるために感染症の蔓延を未然に防ぐ。ただ殺すのではなく死体を分解、腐食させるために微生物や昆虫の活動を活性化し、それが草花や木々を健全に生かす。必要以上の捕食をしないオオカミはコントロール能力に長けた自然界のバランサーでもあるのだ。
ハチがいなくなるとか虫が少なくなったとか、わけのわからないウイルスがあっという間に広がるとか、昨今の自然界の不可解な現象は全部オオカミ不在のせいだとも思えてくる。

もちろん、現在の森林状況の主犯は人間なのであってシカはスケープゴートにすぎない。この本で述べられているのはシカ対策としてのオオカミ導入論だが、同時にもっと広く「人間対策」としてのオオカミ論も不可欠だという気がする。

話は少々飛躍になるかもしれないが、読んでいて「オオカミ導入」は「普天間基地問題」みたいなものだと感じた。誰もが現状を無条件で好ましいとは思っていないのに長期間タブーとして放置したまま、実際に自分の身のこととして考えようとはしてこなかったという点で。
確かに現実性を欠いた鳩山首相は退陣に追いこまれたけれど、基地問題アメリカに直に交渉したのは画期的なことだったはずだ。むしろ、現実にずっとだんまりを決めこんでいて対論の一つも示さないまま、沖縄に負担を強いているのがまさに自分たちなのだという当事者意識ゼロのままただ批判するだけの日和見主義者ばかりの日本人に、どうせオオカミ導入なんて真実味を持って理解できるわけがないのだとも思ってしまう。
だから自分はこの本を途中から、ある種の「日本人論」と結びつけて読んでしまったのだった。
環境問題でも沖縄の基地問題でも「怖いものは排除」の風土が温床にあって、あらゆる政策は常に部分的な対症療法に過ぎない。
単純に、オオカミがいれば快適に慣れすぎて脆弱になった日本人だってもう少ししゃんとするのではないかと思ったりもするのだ。山で悪さをする奴がいなくなるとか。遠吠えが聞こえる夜は震えて眠ればいいのだ。

自分はオオカミ導入にもちろん賛成。‘天敵’が必要なのはシカだけではなく、むしろ人間の方こそであって、人間ならば‘天敵’と認めつつ共生をめざす度量の広さを見せてみよ、とオオカミ族としては言いたい。