C.コール他 / サッカーが勝ち取った自由

ワールドカップ南アフリカ大会開催に合わせて放送されたNHK-BS「世界のドキュメンタリー/シリーズ・南アフリカ」。中でも印象的だったのが、アパルトヘイトに抗議して南アフリカの各競技代表を国際舞台から締め出した『スポーツボイコット』だった。
白人国家・南アフリカを象徴するラグビーの強豪‘スプリングボクス’もその例外ではなかった。ワールドツアーの先々で激しい抗議を受け、英国はじめオーストラリア、ニュージーランド等ではホテルで食事が提供されない、フィールドにクギや画鋲がばらまかれるなどして試合は中止に追いこまれたのだった…


『英国のダービーマッチ』に続いてまたも白水社がやってくれた!翻訳も同じく白水社サッカー担当(?)の実川さん。
準決勝、決勝を残すのみとなったワールドカップ南アフリカ大会の記憶とともに、本年度ベストの一冊であることは間違いない!



【チャック・コール、マービン・クローズ / サッカーが勝ち取った自由 アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち
(293P) / 白水社・2010年(100630-0705)】

More Than Just a Game:Football v Apartheid by Chuck Korr and Marvin Close 2008
訳:実川元子



・内容紹介
 《南アフリカ・サッカーの知られざる実話》― 2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会は、アフリカ大陸では初めての開催となる。なぜ南アフリカなのか? かつてはアパルトヘイト政策のために参加できなかったこの国で開催されることに大きな意義がある。本書は、その意義を伝える真実の物語。
 ケープタウン近くの海上にあるロベン島。アパルトヘイト時代に、ネルソン・マンデラをはじめ何千人もの政治囚が島内の刑務所に収容された。虐待と労働の日々の中で、受刑者たちはシャツを丸めて縛ったボールを蹴りあう遊びを始め、収容棟はしだいに活気づいた。彼らは本格的にサッカーを行うことを望み、団結して刑務所側に要求し続け、ついに許可を得る。それが権利獲得の第一歩だった… 後に彼らは新生南アフリカをつくり、運営する重要なプレイヤーとなる。現在の南アフリカ大統領ジェイコブ・ズマも、その一人だ。南アフリカの人々にとって、サッカーは自由と人権を勝ち取るために重要な意義を持っていた。

          


差別と抑圧からの解放闘争の物語というと、どうしたって身構えてしまう。皮膚の色だけで犯罪者と決めつけられて自由を奪われた者たちの苦難が語られ、権力者側のおぞましい暴力と虐待の実態が明らかにされて、目をそむけたくなるような描写が必ずある。
この本もそうした内容が大半を占めるのだろうと思い、それは覚悟していたのでちょっと陰鬱な気分で読み始めたのだが、全然そうではなかった。アパルトヘイトそのものというよりは、ボール一個あれば誰でもプレーできるシンプルなスポーツ、サッカーの物語なのだった。
著者の一人は脚本家ということもあって、詳細な資料と綿密な取材をドキュメンタリー色が濃くなりすぎないように構成し、おそらく苛酷な体験をしていた当事者たちがその中にいるなどとはついぞ考えなかっただろう一篇の物語として読みやすくまとめてある。(当時の‘差別主義者’たちの実名は最小限にとどめられている。たとえば、暴力的だった刑務官や看守らの個人名を挙げて彼らを糾弾しようと思えばいくらでも出来たのだろうが、趣旨からずれるためにそのようなことにページが割かれていない)
はじめの二章でアパルトヘイトの背景と実態が語られて、主な登場人物=受刑者が紹介される。そして、〈第3章/そしてついに刑務所でサッカーが〉からは、読みながら「いいぞ、いいぞ!」「そうそう負けるな。がんばれ!」とまるでサッカーを観ている気分で応援したくなってくるのだった。



1960年代はじめ、反体制運動により一斉検挙された活動家たちは政治犯として一方的な長期刑を宣告され、一般囚人から隔離するためにロベン島の刑務所に移送された。その数は二千人を下らないという。島では採石場での苛酷な労働に厳しいノルマが課せられ、日常的に看守や刑務官の理不尽な暴力に晒されていた。
娯楽すら認められない劣悪な生活環境の中で彼らは刑務所に、ただサッカーをする許可を求める。はじめは相手にもさず不相応な要求だとして懲罰を受けたが、やがて国際赤十字の視察や人権無視との批判をかわす対外アピールの必要もあって、刑務所側も少しずつだが譲歩するようになっていく。
政治囚である彼らはもともとアフリカ民族会議やパンアフリカニスト会議といった主張の異なる政治組織のメンバーであり、根強い派閥意識や対抗心があって反目していたのだが、サッカーという共通の目的が彼らの浅くない溝を埋めていった。
数年間もの粘り強い交渉の後に、政治囚たちはやっとチームとリーグを組織化しFIFAの会則に則った「マカナサッカー協会」の設立を認めさせた。自分たちでグランドを整備し、審判とオフィシャルを養成し、リーグ開催にこぎつけたのだった。
島でサッカーが始まると、選手としてプレーする者も、ただ観戦するだけの者も、それまでとは見違えるほど生き生きとし、所内の雰囲気は一変したという。名前も個性も主義主張も奪われた囚人生活にサッカーが果たした役割は想像以上に大きなものだった。



スポーツの一つとして、趣味娯楽の一つとして、われわれにとっては数ある選択肢のうちの一つにすぎないサッカーだが、彼らにはどうしてもサッカーがなければならなかった。ラグビーの国・南アフリカには、どうしてもサッカーが必要だった。
ただボール蹴りするだけの権利を得ることから始めなければならなかった彼らが、サッカーの試合をすることで何を学び何を守り何を実現し、どんな変革を彼ら一人一人とロベン島のコミュニティ、およびその後の南アフリカにもたらしたのかが本書の最大の見所であり、そこにはわれわれが忘れがちなサッカーの根源的な魅力がある。わずか17条しかないFIFAのルールブック(LAWS OF THE GAME)に則ったゲームにどれだけの可能性が秘められているのかに、あらためて気づかされる。

特筆すべきは彼らの団結と集団交渉術だ。サッカーが囚人たちを活性化させている事実を面白く思わない刑務所側は、「サッカーをする権利」をことあるごとに奪おうとする。労働の成果が上がらなければ週末の試合を中止すると脅し、収容所内での規律違反をでっち上げては試合観戦さえも禁じようとする。
するとマカナサッカー協会は、命令が下される前に試合を止めてしまう。それも何週も何ヶ月にも渡って。島でのレクリエーションの機会がまったくない状態は体裁上、刑務所側にとっても都合が悪く外圧の種になりかねないので、サッカーへの口出しは出来なくなっていくのだった。(この件りはイタチごっこのようで不謹慎ながら、可笑しい)
そして、こうしたことから培った政治囚たちの組織運営能力はサッカーにとどまらず、徐々に収容所の環境改善に活かされて、後の南アフリカの新体制にも大きく関わることになるのだった。



60年代初めに大挙して連行されてきた囚人たちも70年代に入ると次第に釈放され、島の人口は激減していく。このままだとチームとリーグが維持できなくなる瀬戸際で、皮肉にも1976年のソウェト蜂起によって再び囚人は増加し、若者たちの手にマカナサッカー協会は引き継がれたのだった。
1990年にロベン島刑務所が閉鎖されるまで、マカナサッカー協会は続いた。翌91年からアパルトヘイトは順次撤廃され、94年、ついにネルソン・マンデラが大統領に就任する。


7/3ケープタウンでのワールドカップ準々決勝、アルゼンチン−ドイツ戦の前に両チームキャプテンが人種差別反対の声明を読み上げ、その後「SAY NO TO RACISM」の横断幕とともに記念撮影が行われた。(たしか2002日韓大会から始まったセレモニーだと思う) この日のスタンドにはドイツ・メルケル首相の隣に南アフリカ大統領ジェイコブ・ズマが、その隣にFIFA会長ジョセフ・ブラッターの姿があった(彼が本書序文を書いている)。
ズマ大統領は本書に一プレーヤーとして登場する。四十年前、鎖につながれてケープタウンから船でロベン島に囚人として送られた彼が、現在は大統領としてワールドカップを開催している…なんという人生だろう! 島で一緒にサッカーをした者たちの中にはマンデラ体制以後の南アフリカ政府で要職についた者も多いという。


60年代アメリカの公民権運動に関しては当時の文化とともに知ることは多いのだが、二十年ほど前まで南アフリカでは公然と差別政策が続いていたというのはいったいどういうことなんだろう。日本だってけして無関係ではなかったのだ。
自国の有色人種を外国人として扱い、わざわざパスポートまで持たせて荒廃した一地域(ホームランド、ソウェト)に強制移住させる。反差別の国際的機運の高まりに反してなおも圧力を強め、言語を奪ってアフリカーンス語を強制する(勉強して試験を受けると問題文がアフリカーンスで書かれていて読むこともできずに不合格にされるのだという…) ここまでかたくなな差別意識はどうして生まれるのか、まったくわからない。 こういう政府も政府だが、そうと知りながら数十年間も放置した国際社会の罪も重いのではないか?

開催を不安視されたワールドカップも終幕が近づいている。自信に満ちたズマ大統領の姿や南アフリカの人々の笑顔を見ると、不安を煽った報道に、もしかしたら偏見や差別感情が含まれていたのではないかと恥ずかしくなる。
好ゲームが多かった本大会もあと一週間、最後まで楽しみたい。本書と南アフリカに感謝!


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−《メモ−南アフリカ関連》−

・サン・シティ/Artists United Against Apartheid : PVを久しぶりに見た。いかにも80年代らしいサウンド。冒頭のトランペットはマイルス・デイビス。若き日のボノやディランに混じってボビー・ウォマック、ルー・リードや今は亡きジョーイ・ラモーンまで参加していた。‘I Ain't Gonna Play SUNCITY’と歌うのだが、考えてみればルー・リードやラモーンズがエレガントな白人専用リゾート地(サンシティ)に呼ばれるなんてことはありえないのじゃないか(笑) ピーター・ウルフ(Jガイルズバンド)やマイケル・モンロー(ハノイロックス)らの姿も!


アパルトヘイト体制下で日本人は「名誉白人」扱いされた(おそらく南ア進出企業が多かったため)。80年代後半、国際社会が南アへの経済制裁で団結する中で日本は南アフリカ最大の貿易国として国際的に批判された。


・ゾーラ・バッド(「裸足のバッド」):1984ロサンゼルスオリンピック陸上女子3000メートル  南アフリカ出身の彼女は世界記録保持者だったが南アフリカIOC除名されていたので英国籍を取得して五輪に参加。優勝と記録更新の期待がかかった決勝レースでライバルのメアリー・デッカー(米)と接触、デッカーは負傷棄権、バッドは激しいブーイングを浴びながら7位でゴールした。


・ロベン島の「ロベン ROBBEN」=オランダ♯11ロッベン