A.リベイロ他 / 背番号10 サッカーに「魔法」をかけた男たち

白水社のサッカー本をもう一冊!

『サッカーが勝ち取った自由』は店頭では買えないだろうと思っていて、アマゾンで買うつもりだった。それがこの6月は書店も「にわか」サッカー本ブームだったようで、特設の「ガンバレ侍JAPAN!W杯コーナー」に置かれていたのを見つけて即買いしたのだった。
そして、その隣に並べられていたのが、この本。手にとってみると、まだ若いマラドーナが表紙カバーに。おっ、右隣にラモン・ディアスがいる。左横は、、、おぉっ! オズワルド・アルディレスじゃないか!(正面からは見えないが、たしか彼の背番号は「1」ではなかったか…?)
そうか、オジーマラドーナが一緒にプレーしたこともあるんだな… 表紙に顔を寄せて鼻息荒く写真を眺め回す。オジーの向こうにアルゼンチンCB伝統的髪型(ヘビメタ風長髪)のタランティーニ、いちばん奥にキャプテンのパサレラが見える。ということは82年スペイン大会の頃のアルゼンチンか。
何か他のを買うつもりで本屋に行ったのに、気がつくとサッカー本二冊を手にレジに付いていた(笑)



アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス / 背番号10 −サッカーに「魔法」をかけた男たち−(290P) / 白水社・2008年(100705-0709)】

A magia da camisa 10 by André Ribeiro & Vladir Lemos 2006
訳:市之瀬敦


          

          

・内容紹介
 王様か神様か? 悪童か怪物か? 伝説の名手から21世紀の新星まで、「背番号10」を背負ってピッチを支配する55人の偉大な選手たちの素顔と、彼らが魅せる「魔術」の秘密に迫る!



ワールドカップ南アフリカ大会のファイナリストはオランダとスペイン。どちらが勝っても初優勝となる両チームの対決は楽しみなのに違いないが、ある視点に立つと寂しさも禁じえない。
オランダの10番はスナイデル。トップスコアラーでもあり、オランダが優勝すれば彼のMVPに異論を唱える者はいないだろう。今大会の彼はオランダの顔といえるだけの活躍を確かに見せている。だが、チャンピオンズリーグを制したインテルの司令塔でもある彼には冷徹なリアリストのイメージが強く、10番のロマンはない。
一方のスペインの若き10番セスク・ファブレガスはシャビ、イニエスタ中心のチームにあってレギュラーではない。‘中盤天国’に見えるスペインは、考えてみると10番タイプの選手が意外に少ないのが不思議なところ。今大会は徹底したパスサッカーを展開しているけれど、全員が勤労意欲旺盛な働き蟻の集団みたいで、縦への迫力はなく、ラテンなのに機械的で遊び心も感じられない。(だから我らがエース、F.トーレスが生きない)。スペインのサッカーを「美しい」と言う人が多いが、自分は全然そう思わない。
前回ドイツ2006はジダンの退場と引退で幕を閉じた。「背番号10」はいまや絶滅危惧種になってしまったのか。
こんなことをつい考えてしまうのも、準々決勝と準決勝の合間にこの本を読んでいたからかもしれない。ベスト4の中で最も10番の香りを濃厚に漂わせていたのは、ウルグアイフォルランだった。



10番の伝説はなんといってもブラジルの王様・ペレに始まるのだが、そもそも彼がその番号を付けるようになったのはまったくの偶然だったという。サントスFCのデビュー戦でたまたま空いていたのがその背番号だったのだ…(まだ選手交代がなかった当時は基本的にGKから順に1〜11の番号を付けた。No.10は必然的に‘インサイドレフト’の選手が付けた番号だった) だが、17歳で出場したワールドカップスウェーデン大会1958での鮮烈なプレーがペレとその背番号を特別なものにしたのだった。(ちなみにブラジルが初優勝をとげたその大会でMVPに輝いたのはペレではなく、ジジだった)
そのペレを軸に、ペレ以前(戦前のまだ背番号がなかった時代から)とペレ以降、現代のメッシまで55人の名手を集めた英雄列伝なのだが、それぞれの選手が一話完結ではなく、同時代の選手との関わりによって各章をつないでいく巧みな構成で、サッカーの時代とワールドカップの歴史を読ませてくれる。



世界的なメディアの発達とサッカービジネスの巨大化もあって、マラドーナ以降の選手は映像として記憶がある。だが70年代クライフ以前となると、名前を聞いたことがあるだけという選手が多い。たとえばプスカシュ、ディ・ステファーノ、ボビー・チャールトンやエウゼビオなどなど。
それでも、プレーを見たことのない選手の評伝をこれほど楽しく読めるのは、そこには必ずサッカー好きな少年がいて、彼が地元クラブとサポーターに「我らが息子」として愛されながら地域の「王子」から代表チームの「王様」へと脱皮していく姿には時代を問わない好ましい物語が偏在しているからだ。ストリートの土から生まれた天使がピッチで聖者に変わる瞬間の逸話の数々が記されているからだ。

父親を早くに亡くしてスパイクも買えない貧しい少年時代を送っていたヨハン・クライフは家の近くにあったアヤックスのグランド整備をして小遣いを稼いでいた。そこで彼は才能を発掘された。クラブでもオランダ代表でも彼が付けた背番号は「10」ではなく「14」。それは彼が王者になる喜びを知った年齢を示すのだという。

クライフだけが、なぜ14だったのか。単純に、そんなトリビアの数々を知ることができるだけでも嬉しくなる。

マラドーナの腕にはチェ・ゲバラのタトゥーがある
ACミランのホームはサン・シーロインテルミラノのホームはジュゼッペ・メアッツァと呼ぶが、実は同じスタジアムを共用していて主催クラブで呼称が変わるのだった。そのジュゼッペ・メアッツァはムソリーニ時代のインテルの名選手の名前。
・ルート・フリットは人種差別反対運動、特に南アフリカアパルトヘイト撤廃に熱心に取り組んだ
・こんなエピソードまで紹介されている― ブラジルの10番をペレから引き継いだリベリーノ(元・エスパルス監督)に‘エラシコ’を教えたのは、なんと(!)コリンチャンス時代のセルジオ越後さんだった! 最近はロナウジーニョの得意技として知られるエラシコを発明した(らしい)のは越後さんで、しかも彼はアウト→インサイドだけでなく、イン→アウトのエラシコの使い手だったらしい
・オランダが決勝進出した1978年のワールドカップでクライフが代表参加を辞退したのは、アルゼンチンの軍事独裁政権に抗議するため(もし彼が出場していたなら、オランダの初優勝はそこで実現していたかもしれない)
アヤックスバルセロナのイメージが強いクライフだが、彼のキャリアの最後の一年はフェイエノールトロッテルダム)だった。もちろん背番号「14」(小野伸二も着けた!)を纏い、エール・デビジ制覇とMVPの二冠を獲得して37歳で現役を退いた

以前から興味を持っていたペレと同時代のブラジルのスター選手・ガリンシャが取り上げられているのも嬉しかった。



貧しくとも、サッカーにかける情熱やスキルは天下一品。そういう少年の才能を見抜き、大事に育てるカンテラ(下部組織)と、期待をこめて成長を暖かく見守る地元のサポーターたち。「古き良き時代」のホームタウンの光景といってしまえばそれまでだが、サッカーにおける英雄伝というのは、ある地域で神格化されて伝承されるローカルヒーローのサクセス譚でもあって、昔も今も変わらないはずだ。
だが、現在の巨大なサッカービジネスのシステムの中では10番も1/11にすぎなくなりつつある。南米、アフリカの子供にまでヨーロッパのクラブスカウトの手が伸び、育成というよりは(かなりの省略がある)画一的な短期養成期間で若い才能が使い物になるかどうかが判定されてしまう。これはたぶんサッカーに限った話なのではなく、近代経営とかデキるビジネスマン指南とか(笑)そういうのと同じ、現代社会全般に見られる成果主義の一部でもあるのだろう。
あのメッシでさえワールドカップの舞台では埋没してしまうほどに、現代サッカーはリスク管理と効率が優先されるのである。だが、そのメッシだって本当にアルゼンチンで愛されているのかどうか。彼はキャリアのすべてをバルセロナで過ごしてきた。アルゼンチンの英雄たちが必ず辿るボカ・ジュニアーズリーベル・プレートの名は彼のキャリアには一行もない。ブラジル生まれでポルトガル帰化したデコはどうか。今大会ブラジルの10番、カカはミラノに行くのが早すぎたために魔法がとけてしまったのではないか。弱冠17歳で海を渡りマンチェスターUに入団したC.ロナウドには、‘飛び級’ゆえに何か欠けた部分があるのではないか?
良い選手であるのは間違いない。水準以上なのも疑いようがない。なのに、本書に挙げられている名手たちに比べると、今大会の主役と目されながら空しくアフリカを去ったスター選手たちはいかにもひ弱に見える。プレーヤーとしてのステイタスがワールドカップからより莫大な富を生むクラブタイトル―チャンピオンズ・リーグにシフトしているのだとしても。
10番を担う選手には合理・非合理を問われない特権があったはずだが、現代のすべてのプレーヤーは合理の下でしかプレーが許されなくなっており、10番もその例外ではないのだ。


二人の著者はブラジルのTV関係者。当然ブラジル人プレーヤーが多く取り上げられていて、プラティニジダンの間にカントナ入れてよとかストイコビッチバルデラマやリトマネンはなんで入ってないんだとかの不満はある。
それでも、サッカーにおける10番は詩人であり芸術家であり魔法使いであるという喩えにはマジックリアリズムの魅惑があって、日本流に「ファンタジスタ」と言ってしまうのとは微妙に違うニュアンスがある。これは蓄積のない日本のスポーツ記者や評論家では書けまい。
あらゆる芸術運動には必ず反動がある。ならばこんな時代であっても、世界のどこかにまだある未踏の秘境からサッカーの神秘を体現する10番はまた必ず現れて来るはずだと信じたくなってくる。