皆川博子 / 少女外道

ワールドカップに合わせてサッカー本を続けて読んでいたので、小説に戻るのに苦労するかもと思ったけど、がしっと首根っこを押さえて沈められた。皆川ワールドにやられました。

読みたい本がたくさん貯まっている。これからガンガン読むぞー!(『天地明察』はいつになることやら。。。)



皆川博子 / 少女外道 (229P) / 文藝春秋・2010年(100713-0718)】


・内容
 この感覚は、決して悟られてはならない。人には言えない歪みを抱きながら戦前戦後の日本をひとり生きた女性を描く表題作のほか、ラスト一頁で彼岸と此岸の境を鮮やかに越える「巻鶴トサカの一週間」など、名手・皆川博子の傑作短篇七篇を収録。


          
          

かなり前に読んだのではっきりとは覚えていないが、三島由紀夫が政治と芸術を論じた60年代のエッセーの中で、ポピュラー音楽は低俗で有害で、ベートーヴェンは有益で教養を高めるものと一般的に考えられがちだが、実は高尚なものほど毒があり危険度が高いのだということに日本の文化政策はまったく気づいていない、と書いていた。また、プラトンを引用して、大いなる悪は何らかの欠如ではなく本性の充実によってもたらされる。弱い本性からは偉大な善も偉大なる悪も生まれないのだとも述べていた。


僕はあなたの、生まれてこなかった従弟です―。 一通の封書に記された差出人の住所を辿ると、そこは雑木林の奥にある沼だった―。
『少女外道』という穏やかならぬタイトルを冠した本書は、少女時代の密やかな刻印が現在の風景を揺らめかせ、定住を拒む魂に憑かれた女たちを主人公にした高貴にして野蛮な作品集。もちろん有毒性。



一話読み終えるごとに、ため息を吐く。後味が良いわけでもない唐突なラストに虚を衝かれ、つかの間、回路が断線して心がさまよったあと、不思議と笑いたくなってくる。
何?何だって?そう来るのか。そう落とすのかよ。やってくれるよ、まったく…。半分は驚き、半分は呆れはてながら、ツッコミを入れたくなる。だが、そのエアポケットにじわじわと感嘆が満ちてくる。笑っちゃうしかなかったのだ。読書でなければ「あっぱれ!」と声に出して喝采していただろう。伝奇的結末が示した耽美的余韻なんてすっ飛ばかして嬉しくさえなってくるのだ。小説を読むというより、名人芸を拝ませてもらった喜び。職人技に触れた喜び。これは読書というより「体験」に近いのかもしれない。



他人に悟られまいとする正体不明の感情。それが何なのかわからず、自分にも飼い慣らすことができない不安を抱いたまま、そっと心の片隅に押しこんだまま女は歳月を重ねてきた。他人と共有できない感覚が自分にはあるという強烈な自意識はおのずと孤独を選ばせる。そして孤独がますます知覚を鋭敏にする。
同じ場所に立ちながら自分にだけ見えてしまう、自分だけが感じ取る情景。そこにいながら魂は異空をさすらい、肉体を甘やかに誘う引力には抗えない。血の匂いを甘くするのは何か? 痛みを官能に変えるのは何か?



そんな皆川博子さんにしか書けない七篇は一日一話、それ以上は無理だった。読み終えて、すぐ次を読む気になれないから。
本を閉じ、読んでいたのと同じぐらいの時間、余韻をかみしめたり、最後のページを何度も読み返して反芻したり。最後の一行が終わりを告げないから、きっと異形の魂は今もどこかをさすらっているにちがいない、と思わずにいられない。
そうして最も危険なのは、自分にも主人公と同じ血が流れているかもしれないという錯覚を呼び起こすことだ。破滅の恐怖を忘れて甘美な官能になら殉じたって良いと心が勝手に準備を始めてしまうことだ。毒が回るのを嬉々として自覚していることだ。



上記の三島由紀夫の本の中に短いが、当時まだ若い大江健三郎安部公房の批評文もあった。それはこんな三島らしい修辞で結んであった―《彼らの額にはたしかに「獣の徽章(しるし)」がある》  傘寿を迎えんとする皆川博子さんの額にも今、同じ徽章が浮かんでいるのではないだろうか?



最後の二篇〈アンティゴネ〉〈祝祭〉は幻惑的な先の五篇とは違って、終戦間際の少女の人間模様をストレートに描いている。
東京空襲を逃れて田舎に疎開した幼い子供は親の記憶もあやふやで自分がどうしてそこにいるのかも定かではない。自らの素性さえ判然としないまま、あるいは孤児の自覚すらないまま終戦を迎え、生き抜いてきた女たち。この二篇は、これまでの皆川作品の創作色が薄れ、より強い生の実感がこめられているように感じられた。今、書いておかねばならないことへの静かながら強靱な筆力に前の五篇とはまた違う迫真があって、胸が熱くなったのだった。
幻想のトリックのみでは終わらない。出征する兵士に手渡そうとした不格好な手毬にこめられた想いの、なんと切実なことか! 生の儚さとは逆にたくましくも生きてきたという、戦争の影を色濃く反映したこの二話が本書を締めくくっているのも良かった!

最後の《祝祭》には、思いがけず白水社林芙美子の名が出てきて、嬉しさが増したのだった。