中村文則 / 悪と仮面のルール

昨年の『何もかも憂鬱な夜に』『掏摸』のときもそうだったが、とくに刊行日をチェックしているわけでもないのに書店に行くと出たばかりの新作が目に留まるという、個人的にちょっと縁がある感じがする中村文則さん。六月末刊行の今作も、その週末に手に入れたのだった。
で、今回はなんと(!)星野智幸『俺俺』と同じタイミングのリリース(刊行日は同日?)。 星野智幸vs中村文則、マイフェイバリットの二人が対決!というと大袈裟だけど。読み比べじゃないけど、少し意識しつつ、読んでみたのだった。



中村文則 / 悪と仮面のルール (362P) / 講談社・2010年(100719-0722)】


・内容紹介
 父から「悪の欠片」として育てられることになった僕は、「邪」の家系を絶つため父の殺害を決意する。それは、すべて屋敷に引き取られた養女・香織のためだった。十数年後、顔を変え、他人の身分を手に入れた僕は、居場所がわからなくなっていた香織の調査を探偵に依頼する―。刑事、探偵、テログループ、邪の家系…世界の悪を超えようとする青年の疾走を描く。芥川賞作家が挑む渾身の書き下ろしサスペンス長編。新たなる、決定的代表作。


          


期待を持って読み始めたのだが、主人公の少年期に始まる序盤がどうにもつまらなくて、これは最後まで読むのきついかもと不安になる。前半のネガティブな印象は、主人公の「僕」が顔を整形して他人になりすまして中村文則らしくなってくる中盤以降にも尾を引いた。
人目に脅え過去の自分は死んだ者として現在を生きる「僕」は当然社交性に乏しく、高級クラブで初めて会ったホステスに「あなたはいい人だ」「奇麗だ」なんてほざくような人物なのだが(失笑)、「悪」とか「幸福」の概念論になると途端に饒舌になる。行きずりの女と寝て、共にしたベッドで自分の秘密を寝言でぺらぺら喋ったりもする。
生活感がないのではなく、『掏摸』の主人公同様に生活感を消したのだとしても、この男の周りには彼にとって都合の良い人間しかいない。「邪」というよりは、所詮憎かった親の遺産で暮らしているこの男の人物造形の部分での「弱」ばかりが目についてしまう。ごたいそうな思想をひけらかして彼は社会性を獲得していくように見えるけれど、どこまでも個に閉じたまま勝手に自己完結してしまうので、説得力がない。



他人の顔と戸籍、闇の整形医、ことごとく依頼を完遂してくれる敏腕探偵、フリーターの不法口座、簡単に手に入る薬物や劇薬… 非合法な生業に手を染めた連中との関わりのみで物語は進展するが、裏社会に通じていれば何でもありな根拠の不確かな幻想に依拠しすぎではないか。
たとえば成人した「僕」は過去の自分を葬って顔を変えるのだが、そのことにいささかの躊躇もない(過去の章から現在に移ったときには手術が終わっている)。顔というシンボリックなパーツの人間社会における意味や、内面はそのままに外見だけ変えることの功罪は作品中で一切問われない。安部公房はその煩悶だけで『他人の顔』を成立させるのに対し、本書では変相は無造作でただの設定にすぎない。

社会というのは無関係な他人との摩擦の連続でもある。なんら接点はない大勢の他人に囲まれていて、われわれは対人間の不要な軋轢を生まないよう注意することに少なからずのエネルギーを使って日々暮らしている。なのにここには裏稼業だけで何でも事足りてしまう不自然な都合良さしか書かれていない。主人公は自分の陰謀に没頭していて、障害も副作用もなく、邪魔者のいない環境は居心地良さそうで、ちっともあくせくしない。日常のストレスとは無縁に見える。そんな青年が説教めいた倫理観を口にしても、それこそ寝言戯言にしか聞こえないのだ。
そんなに現実は甘くないというのを書くのが中村文則ではなかったか。

「……時代劇とか漫画みたいに、よくない人間を殺して拍手されるような、実際はそんなに簡単にいかないみたいだ。……なんでか知らないけど、この国には人を殺してもあまり悩まない娯楽とか文化が溢れてる気がする、人を殺しては駄目だと言ってるわりにはね。でも実際……」


それと、裏社会同様に気になったのは作中の戦争の扱いである。戦後生まれの若い作家が(真面目な姿勢ゆえに)挿入する‘ネタ’としての戦争の話に、違和感を覚えることが往々にしてある。  
本作でも、主人公の父親が従軍したフィリピン戦線の陸軍部隊で虐殺に関わったことで「狂った」とされる。また、日中戦争の蛮行の加害者被害者の子孫が現代の東京で交通事故の当事者同士だったというトピックから歴史の「反復」に言及する場面もある。そこには歴史を直視した視線よりも、現代の映画やゲームの感覚に冒された戦争観がベースにあるように思える。
肯定否定の問題ではない。作家の態度の話であって、それは小さな効果を狙った(作品内ではたいしたウェイトをしめない)一挿話にすぎないとしても、結局作品の全体像にそのまま表れてくるような気がする。
フィクションだからといって、ただ物語の肉付けを豊かにするために、知りもしない戦争を消化不良のまま書いていないか。戦争の挿話があれば作品に重みが増すという計算が働いていないか。
おそらくインターネット、携帯・デジタル機器や裏社会万能論は小説家にとっては創作上、便利なツールなのだろう。それと同じように、遠くなるばかりの戦争も、ただ刺激的なイメージを喚起させる小説作法の一手段になっているように思う。(これは中村文則さんだけを批判するのではない。中村文則さんの作品だからこそ、あえて書いておく。ノンフィクションをフィクション内に取り込むことの難しさは、奥泉光『神器』以来、気になっている)



言うまでもなく、この世は善と悪に二分できるものではない。幸福と不幸だってそうだ。そのどちら側でもない所で瞬間瞬間の判断と修正を絶えず繰り返しながら生活は形成される。前二作では救いのない悪の闇から何かを浮かび上がらせることに成功していたのに、今作では善悪の単純化、二極化が前提になってしまっているために、かえって窮屈な印象を持った。それはもしかしたら、わかりやすく読みやすくしようという著者の意図だったのかもしれないが。

物語の骨格は、悪や幸福の観念論をはずしてしまえば「愛する女をヤク漬けにされて損なわれる地獄」から助けたいという青年の私的な話にすぎないのだが、そこに彼女を助けることで本当は自分が救われたいという男の矮小なエゴまで読んだら深読みしすぎか。最後は女の方が自ら過去を告白することで男は自分に赦しをあたえる機会を得る……今書いてて気づいたのだが、この主人公を最後まで好きになれなかったのは、ただただ彼が「男らしくない」からだな。
いっそ、もっとシンプルに「白いワンピースフェチ」の変質者の物語として気楽に書き飛ばした方が良かったのでは?(笑)


ダメ出しばかりになってしまったが、期待が大きいからこそということで。実際にはそこそこ楽しんで読んだのだ。もちろん真剣に世界を見つめようとする姿勢は中村さんらしかったが、たとえば作中で語られる‘イラク戦争の真実’みたいな話は特別目新しくもないし、民間軍事産業絡みのアフリカの小国の紛争ネタは『虐殺器官』みたいだし、ちょっと詰め込みすぎに思えた。
青臭いことは重々承知で、あえてそれを言葉にし、文章に表す。その挑戦には相変わらず頼もしさを感じたのだが、今回は気負いすぎたのかも。


前回『少女外道』で引用した三島由紀夫の本で覚えていることを、また書いておきたい ―「現実の犯罪は裁かれるが、小説上の完全犯罪は至上の芸術として古典になりうる」― 中村文則の完全犯罪にはまだ時間がかかりそうだ。


「知ってた?イラクで、一年間で戦争やテロで死んでしまう人の数より、日本で一年間に自殺してしまう人の数の方が多いんだって。…外国のことばかり騒ぐけど、私は日本の社会も残酷だと思う」

こういうところは中村文則さんも星野智幸さんと同じところを見ている。
さて、星野さんの新作はどうだろう。次は『俺俺』!