伊東潤 / 戦国鬼譚 惨


伊東潤 / 戦国鬼譚 惨 (266P) / 講談社・2010年 (100804-0808)】



・内容紹介
 だまし合いには勝たねばならぬ!生き抜くため、守るため、心に巣くう鬼は殺し、裏の顔は見せるまい。衝撃作『戦国奇譚 首』の作者が、信玄以後の甲信の武将たちの進退を描く。


          


信玄亡きあと、長篠合戦に大敗を喫して衰退の一途をたどる甲斐武田家。織田・徳川連合軍の甲州征伐の脅威にさらされた武田重臣たちの、砂を咬む決死の選択、謀反の誹りは覚悟の非情な決断を描く五篇からなる連作短編集。
それぞれが独立した短篇ではあるが、旧態然とした武田当主・勝頼に募る不信と圧倒的な権勢を誇って国境に迫る織田への恐怖を背景に、武田家が瓦解する過程を周縁から多角的・同時進行的に描いてみせた会心作。歴史上は寝返りとされ悪名を着せられた者たちの離反の事情を丁寧に追っていく。



前作『戦国奇譚 首』が理性と功名心の戦いなら、本作では忠義心と自己保身の葛藤に焦点が当てられている。愚昧な主君(勝頼)への絶対の忠と領民への忠の板挟みで揺れる領主の姿は現代の中間管理職のようでもあるが、彼らが直面しているのは国家存亡の危機であり、一族滅亡に直結する自らの出処進退である。
忠誠を誓った主家が明らかに没落しつつある。敵は飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長だ。三河との国境沿いにある国々の領主たちはこぞって危機を訴え後詰(援軍)を要請するが、勝頼は動いてくれない。「生きるも地獄、死ぬも地獄」、ならばどうする?

この短篇集の性格を見事に表しているのが、巻頭の「木曾谷の証人」。
武田領最西端に位置し三河との国境にある木曾は豊かな森林資源を活かした林業で安定を保ってきた。織田軍の侵攻が間近なときに、あろうことか勝頼は後詰の見返りとして新城建築用に無茶な建材供給を命令してくる。忠義を尽くそうとする領主の兄・木曾義昌を説得するために弟・義豊がとった行動とは…(!)
本書タイトルに附された「惨」、これは悲惨の「惨」なのであった。



落日の武田と強大な織田。武士として、一方領主として、その狭間で迷う男たちの苦悩と焦燥をあぶり出す著者の手腕は前作同様冴えている。
このまま武田に仕えるか、離反するかの判断はそう容易なものではない。主家と領地間では同盟の契りとして必ず政略結婚が交わされ、さらに身内の者を証人(人質)として相手方に預けてもいる。寝返れば、自分の母親や子孫の命はないのだ。主家存亡の危急の大局と一家族の命運を天秤にかけなければならない。
五篇ともそうした非情な状況下の物語なのだが、中でも群を抜いて存在感があったのが、〈画龍点睛〉の武田信虎。かつて息子・晴信(信玄)によって国を追われた信虎が信玄死去に乗じて甲斐に帰還する。齢八十にしてなお天下取りに執念を燃やすこの壮健豪放な傑物は毒をまき散らして勝頼を翻弄し、自らの野心のままに武田家を牛耳ろうとする。
信玄が自分の父親を追放して家督を継いだという事実も凄まじいのだが、追われた父・信虎はまたしても息子に… という筋書きに少しも悲哀を感じないのは、親子の情などかなぐり捨てた武人の究極とはこういうものかと思わされるからだ。。



そして、そうした肉親間の関係さえも不信の毒でバラバラにほぐしては自らの意図通りに束ねようとするのが最終話〈表裏者〉に登場する織田信長であり、その存在はまた信虎の非情をさらに凌ぐのだった。
いち早く武田を見限って織田の軍門に下った穴山梅雪(信君)を利用して彼が闇に葬ろうとするのは、盟友であるはずの徳川家康。その仕掛けとは― 「本能寺にて信長斃れる」の、誤報?(!) 一方、家康も抜け目のないしたたかな男なのだった…
さて、真の表裏者とは誰だったか? これは著者自身、書いていた楽しかったのではないだろうか。

戦国の謀略・諜報合戦をネタにした時代小説は多いけれど、本作は主に領国の行方を左右する瀬戸際で展開される骨肉の争いを生々しく再現する。合戦場面はなくとも兄弟、親子間の確執はサスペンス満点。老獪狡猾に立ち回る者も忠義者も違わず、滑稽なまでに愚かしく哀れな存在として描き出すのが、この著者は本当に上手い。