クレア・キーガン / 青い野を歩く

これはマズイな… 一話目を読み終えて困ってしまった。白水社の本だし、期待して満を持して読み出したというのに、まったく感想がない。短いセンテンスの羅列。淡々と、というか起伏のない平板な文章。良いも悪いもない。娘が家を出て行く朝、ただそれだけの話なのだ。
戦国物のあとに読むのは間違っているのは認めるが(笑)、これはオオカミ族泣かせの作品だ。
本読みとしては、読んで何も感想を持てないのが一番つらいものだが、もしかして、これがそれ? 行間を読め、もっと集中して読め、そういうことか?



【クレア・キーガン / 青い野を歩く (225P) / 白水社エクス・リブリス・2009年 (100810-0814)】
WALK THE BLUE FIELDS by Claire Keegan 2007,2008
訳:岩本正恵



・内容紹介
 封建的で、因習に縛られる男たち、内なる衝動に突き動かされ、息苦しい日常の外へ飛び出そうとする女たち… ケルト文化が今も息づくアイルランドの田舎を舞台に名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!


          


読む前に「アイルランド」の先入観を強く持ちすぎていたかもしれない。厳しい自然と悲しみの歴史。ジャガイモ飢饉と移民。U2‘サンデー・ブラッデー・サンデー’。‘WHITE NIGGER’。緑のジャージ(サッカー・ラグビー代表)が象徴するもの−不屈、闘志、一丸、激情、祖国愛。それに、悲運(アンリのハンドでワールドカップ出場を阻まれた)。大酒飲み(ギネスビールとアイリッシュウィスキー)。神話と古城と妖精の国。‘Luck Of The Irish’。

……きっとそういうことどもが書かれているにちがいないと勝手に思いこんでいたのだ。
一話目で肩すかしを食ったものの、次の表題作〈青い野を歩く〉で「ほぉ…」となって、その次の〈長く苦しい死〉で「ほほぉ…」となった。〈褐色の馬〉で「ああ、なるほど」、その辺でやっとわかってきた。べつにこれはアイリッシュアイデンティティを書いた作品集ではないのだと。



では、これは他の国の作家によっても書かれる小説だろうかと考えてみると、専門家ではない自分にはっきりしたことは言えない。だけど、やはりアイルランドの風土がこれを書かせたのだろうと思いたい。
吹きすさぶ風に波打つ草原の彼方は大西洋を望む断崖だ。アイルランドの西の涯てにたたずむ主人公は自分が世界の終わりに立っているのだと思うのではないか。眼下はどこまでも茫漠と広がる海原しかない。世界の突きあたり。行き止まり。見捨てられた土地に置き去りにされた孤独を味わうのではないか。
そこに暮らしていながら、忘れ去られた存在として生きている自分を見つけてしまう主人公の彼女、彼たちは皆なにがしかの後悔か罪の意識を抱えている。本来ならその事件なり行為を語って小説とするところを、著者は彼らの過去の前章としてほのめかす程度にしか書かない。代わり映えのしない、あきらめが支配する日常を現在形の第二章として記していき、最後に小さな反乱なり革命の予兆を記して終わる。粒子の粗いモノクロ写真の灰色に青だったり緑だったり、淡い光彩が差してくるような結末は、どれも手放しで明るい感触ではないのに、かといって寒々しくも痛々しくもないのはなぜだろう。

すべての会話には、目に見えない器が存在するというのが彼女の考えだった。話すというのは、ふさわしい言葉を器に入れて、そうでないものを取り出すことだ。愛の会話の中で、人はこのうえなくやさしい方法で自分自身を見いだす。そして最後には、器は再び空になる。男性は、ひとり暮らしでは己を知ることはできない、と彼女は言った。


森や酪農で働く男は仕事に精を出すのが男の美徳であり、家族への愛情の証だと信じている。男はブーツを履いたまま眠る。脱いでしまえば翌朝仕事に行くのが億劫になるのがわかっているからだ。
何度も求婚されて、そのたびにイエスと答えてきたはずなのに、なぜかいまだに独身のままでいる作家の女。年齢を理由にもう結婚できないかもしれないと思い、好きでもない男と結婚した女。彼女らは人生は自分の思うようにはならないと信じていて迷信深い。それぞれに男に愛想をつかしているのだが、彼女たちが相手に望んでいるのは実はそう特別なことではない。

鶏の卵と山羊の乳。自家製のチーズにバター、ブルーベリージャム。オークやナナカマドの薪をくべて暖を取る。電話もテレビもない牧草地の小屋での暮らし。
風と雲が造り出す荒々しい風景がそのまま彼らの背景だ。いや、彼らは風景の一部にしかすぎないのかもしれない。無口になった主人公の心情の移ろいは散文詩のような陰影に富んだ自然描写に託される。その文体は透明感があるが、かわりにフィルターもオブラートもかかっていない。どの作品にも主人公が見る夢や読んでいる本の一場面が効果的な暗喩として使われる。
〈森番の娘〉の妻・マーサは夫が娘に与えた犬を森に捨ててこようと夢想する。ついてくるのなら石を投げて追い払ってしまおうと、自分でも不思議なくらいに強い衝動を感じる。その悪意に彼女の胸にある闇の暗さと断絶の深さを思わされるのだ。



およそ現代文明とはほど遠い、時間が停止したかのような土地での生活は、精神的には囚人のそれと変わらないのかもしれない。物語の最後が示す出発は解放なのかといえば、そう軽々しくは断言できない。
八篇中もっとも好きだったのは最後の〈クイックン・ツリーの夜〉。魔女のようなところのある主人公の女・マーガレットは隣に住むスタックと結ばれ、本書で初めて(少々滑稽ではあるけれど)明るい家庭のイメージがもたらされる。しかしマーガレットは夫を捨て、さらに西のアラン島行きのボートに乗ってしまう。スタックが予感していた別離は、読んでいる側もなぜかそうなるだろうと思わされているのだった。では残された男はどうなるのだ?と同姓としては問わずにもいられないのだが、女の残していった温もりは永遠なのだろうと信じるほかない。
この作品はただアイルランドの古くからの伝承や迷信の数々を書きたかっただけではないのかとも思える。結果的には男には山羊しかいないということになるのだが、その山羊の存在はまた暗喩として、イェーツ〈幸福な羊飼の歌〉を連想させる。
ほとんど閉じこめられているかのように思える人々を、漂流者のように描く。どこからともなくやって来てはいつしか消えていく、その儚さが切なく心に残った。

もっと土着的な、どろどろのアイルランドを読みたかったのが自分の本音ではある。しかし、著者はまだ若い。その若さはキーガンと同年代のイーユン・リーにも似ている。血へのこだわりが出てくるのはまだこれからなのだろう。



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【対訳 イェイツ詩集 (編:高松雄一) / 岩波文庫・2009年】


          

ざわめき歌う海へ行って
  内にこだまを秘めるねじれ貝をさがし出し、
     その口元におまえの物語を語ってやれ。   ―〈幸福な羊飼の歌〉より


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自分にとっての‘アイルランド’はこれ↓ 
支配者イングランドの‘GOD SAVE THE QUEEN’に対して圧倒的なボリュームで歌われるアイルランド国歌(ゲール語)は‘SOLDIERS SONG’。続けて北アイルランドとの統一チームであるアイルランドラグビー代表の公式アンセム‘IRELAND CALL’が歌われる。