梯久美子 / 昭和二十年夏、僕は兵士だった

振り返ると今年は『ヒトラーの秘密図書館』『第三帝国のオーケストラ』に始まり、特に意識したわけでもないのに1945年(昭和20年)がらみの本をけっこう読んでいる。あれもこれもと手を出して広く浅かった読書が変わってきたのは年齢とともに邪念が減ってきたからかもしれない(笑)


七月に刊行された梯さんの『昭和二十年夏、女たちの戦争』を買いに行ったが、なかった。でも一年前に出たこちらがあったので買ってきた。なーんで新刊本を置いてないのだ!?



梯久美子 / 昭和二十年夏、僕は兵士だった (266P) / 角川書店・2009年 (100815-0818)】



・内容紹介
南方の前線、トラック島で句会を開催し続けた金子兜太。輸送船が撃沈され、足にしがみついてきた兵隊を蹴り落とした大塚初重。徴兵忌避の大罪を犯し、中国の最前線に送られた三國連太郎。ニューブリテン島で敵機の爆撃を受けて左腕を失った水木しげるマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻を生き延びた池田武邦。戦争の記憶は、かれらの中に、どのような形で存在し、その後の人生にどう影響を与えてきたのか。『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(大宅壮一ノンフィクション賞)の著者が綴る、感涙ノンフィクション。


          



本書は戦地で皇軍兵士として終戦を迎え、戦後各分野で第一人者となった五名の戦場体験を取材した証言集。当時十代後半から二十代の彼らはどんな思いで戦地に赴き、何を考えて生きていたのか。次々と同胞が斃れ逝く中での、まさに九死に一生を得た体験が生々しく実感のこもった言葉で語られている。

不謹慎かもしれないが、面白かった。
三國連太郎が徴兵忌避者だった?あのスーさんが…! 大陸への輸送船にしのびこんで海を渡り、釜山、青島へと転々として満州で収容された青年は、終戦後、職探しに行った東京でスカウトされ、その一週間後には「俳優・三國連太郎」として撮影所通いを始めたのだった…
多くの若者が青春を奪われ命を散らせた戦争の時代に、彼の青春はただただ破天荒であって、戦争ですらその一部にすぎないように感じられ、本書収録の五人の人生中でもきわだって異彩だった。



それぞれに語る悲惨な目撃証言、苛酷な体験談に口をはさむ余地はない。印象だけ簡単にメモしておく。

 ・「戦争」と一口で言ってもいろいろな戦争がある。本書収録の五名のうち、前線での交戦状態を経験しているのは二名(ニューギニア戦線で左腕を失った−麻酔も消毒薬も無しに切断した−漫画家・水木しげる氏と「沖縄特攻」に従軍した建築家・池田武邦氏)。
 ・軍隊には様々な職務があり、全員が戦闘員として敵軍と対峙するわけではない。(俳人金子兜太氏は海軍施設部、登呂遺跡発掘の考古学者・大塚初重は海軍気象部に所属)
 ・常に交戦状態にあるわけでもない。日常生活が営まれ、娯楽をたしなむこともある。
 ・本書の五名のうち、軍人(兵学校を卒業して入隊)は池田武邦氏だけ。戦艦「大和」とともに沖縄海上特攻に出撃した彼の体験談は召集された他の四名とは戦争観に温度差があるが、説得力があった。
 ・召集された者は必ずしも士気高い者ばかりではなかった。末期には「学徒出陣」にまで至ったが、短期間の訓練の後とはいえ素人が兵隊として駆り出されたということでもある。
 ・いうまでもなく、戦地に行った者ばかりでなく、本土にも戦争があった。戦わなかった者にも戦争があった。



取材は平成二十〜二十一年にかけて行われた。現在では五名とも八十歳を越えた老年である。
自分が息をつめて文字を追ったのと同じように、戦後生まれの筆者も、彼女にとって祖父世代にあたる男たちの話にじっと息を殺して聞き入ったのだろう。聞き手の素直な態度が語りをよく引き出しているように見受けられる。和やかで昂ぶることのない語り口とは裏腹な、静かに張りつめた空気と濃密な時間が紙面に写されている。
おそらくこのインタビュー現場で筆者はそれほど苦労しなかったのではないか。分厚い資料や細々としたメモを持ち出して聞きたい条項をいちいち挙げなくとも、対象者は自ら進んで話してくれたのではないだろうか。
彼らは著名人ゆえに、これまでにも同様の取材は受けてきたはずで、今のうちに話しておきたいという思いだってあっただろう。
もう一つ思うのは、六十年という歳月だ。あの戦争、自分が行った戦争。功成り名を成した現在までに、彼らの胸中で何度も反芻され再生されてきた戦争。数十年の間に繰り返し何度も語りかけ、問い続けた言葉たちは、本書の取材前にすでに彼らの胸に準備され定着していたのだろう。滞ることなく澱むことなくあふれだすそれらを、筆者は余すことなく拾えば良かったのにちがいない。
体験者だけが語りうる事実の重みと痛みにはただうたれるしかないのだが、語られなかった言葉にも思いをはせずにいられなかった。痛烈に刻みつけられた記憶は今なお残る傷跡だ。しかし、かさぶたのように剥がれ落ちた記憶、朽ち果て舞い散ってしまった記憶にあったはずのものが、必ずしも針小だとは言い切れない。
記憶として整理され保存されなかった事実。語られることのなかったあやふやな事実。個人的体験と国家事業のあいまいな溝はそのまま現代にまで持ちこされ、このまま埋められることもなさそうだ。



著名人の戦場体験記は探してみれば意外に多い。筆者は終戦を転換点とし原点とした彼らの第二の人生に戦争の影を読もうとする。その洞察の深さに記録的要素の強い類書との違いがある。
復員後、彼らの青春がリセットされたことは、先記の三國氏の劇的な転身に顕著なのだが、本書で紹介された五名にかぎらず、多くの同胞の死を悔やみ弔いながら日本全土がゼロからやり直したそのエネルギーが復興につながったのだと思わされた。



翻って今の日本である。戦後65年、平成二十二年の夏である。所在不明な百歳以上の高齢者が全国で75人に上るという(8/10現在)。
百歳以上の方々はどんな形であれ戦争体験者のはずで、戦争の時代に働き盛りとして国を支えて生き延びた人々である。戦争のみならず、その後の復興を見てきた生き証人であり、貴重な語り部となるべき人材でもあるはずだ。国にとっては現在の礎を築いてきたともいうべき功労者ではないか。
それが、このていたらくである。あるとき「あの悲惨な経験を風化させるな」と叫び、またあるときは神妙に靖国に英霊を祭りながら、実態は放置してきた結果のこれである。情けないまでの怠慢愚鈍である。

これは年金の不正受給だとか、断じてそんな問題じゃない。つくづくダメな国だと思う。

こういう忘れ方をわれわれはこれまでずっとしてきたのではないか。見て見ぬフリしてきたのは沖縄の基地問題だってそうなのだろう。
「戦争は悲惨だから絶対反対」と子供が口にするより以上の認識を、親世代のわれわれは持てているだろうか?八月十五日の大半を帰省だかレジャーだかで何十キロもの大渋滞の車列でただ排熱をまき散らし続けて過ごすのも、無意識に遠避けようとしているのではないか?意識が低いといわれればきっと確かにそうであるはずなのに、誰も口にしないから常に後回しにして永遠の他人事にしてきたのではないか?

今はまだ、戦争を語る声がある。近い将来、その声は途絶える。そのとき、本があるじゃないか、と言える本をどれだけ知っているか。それは戦後世代の最低限の‘大人のたしなみ’の一つだ。読書は自分の無意識を正当化させない武器にもなるのだ。