昭和二十年の「文藝春秋」

昭和二十年モノをもう一冊。
終戦の年の「文藝春秋」から当時の情勢が色濃い記事をピックアップして再録したこの本。新書ながら手に取るとけっこう厚くてずっしり重みがある。適当に斜め読みするつもりだったんだけど、……… 意外な読み応えがあって、先入観とは少し違う印象が残った。



【文春新書編集部・編 / 昭和二十年の「文藝春秋」 (384P) / 文春新書・2008年 (100820-0824)】



・内容紹介
 戦火の中、本土決戦を前に「文藝春秋」は出ていた。そして、敗戦のあとも。運命の年の記事を厳選して、昭和二十年にタイムスリップ…
 「第二十回芥川賞発表」― ザラ紙に近い粗悪な紙にインクはのりが悪くにじんでいる。月刊「文藝春秋」昭和二十年三月号には、それでも芥川賞が発表されていた。 空襲、空腹、玉音放送……そして占領。物資が払底した敗戦の年にも、「文藝春秋」は辛うじて出ていました(ただし四月号から九月号は休刊)。残された6冊の中から興味深い原稿を厳選し、その誌面を通して、日本が最も苦しかった1年を再現する画期的なアンソロジーです。特攻隊基地に赴き隊員たちの胸中を直撃したルポ、芥川賞受賞作と選評、終戦直後の作家や知識人の切実な訴え。あの時代を誰でもが実感できる1冊です。(文春HPより)


          



個人的には「文藝春秋」といえば親方日の丸的御用雑誌だと思っているし、ましてや戦中となれば、まさに‘大日本帝国広報部’みたいな皇軍賛美記事ばかりだったのだろうと想像してしまう。当時の言論統制下で新聞・出版社は検閲を受け、掲載されるのは愛国か反米記事ばかりで著名作家が報道班員として徴用されたことは桐野夏生『ナニカアル』にも書いてあったが、文春(菊池寛)などは率先してその役割を引き受けたのだろうと思っていた(「中央公論」「改造」は1944年に廃刊に追いこまれた)。
それはあくまで現在の、良くも悪くも体制寄り・メジャー王道路線の文春のイメージ(というか、芥川・直木両賞を主幹するのだから文春そのものが体制といえる)からの推測だったのだが。

その推測は、まあ外れてはいなかったと思う。
サイパン、グァムで玉砕。連合艦隊は壊滅。硫黄島が陥落し、フィリピンにも米軍が上陸。本土空襲も激しさを増していた。
そんな状勢でも昭和二十年二月号「佐藤春夫/比島戦局に寄せて」や菊池寛の連載随筆「其心記」は〈真の神機の到来〉として国民に一億総蹶起を熱烈に呼びかけている。
若い頃の自分だったら、こういう文章は目にするのも穢らわしく感じて、まともに読むことはできなかったはずだ。



今回じっくり読んでみて、予想していたとおりの嫌悪感と同時に、ちょっと切ない気持ちにもなったのだった。
「必勝の信念が戦力に加担する」だなんて…と思うのだけれど、だけど、それ以外になかったのではないか? アメリカが圧倒的な物量に物を言わせて日本軍を駆逐する。B29が300機も飛来して日本中に爆弾の雨を降らせる。南方では敗走につぐ敗走、玉砕また玉砕。しかし、それでも我々には精神がある。〈生きるべきは悲壮〉、そう言うほかに何があっただろう。

東京空襲について菊池は「秒速何百メートルで飛んでくる敵機が高度数千メートルからわれわれ一人一人に弾を当てるのは容易ではない」として心配無用だと科学的に(笑)書いている。実際には大量の焼夷弾がばらまかれて東京は火の海に包まれたのだ。(まず区画の外枠に沿って爆弾を投下し炎で一帯を囲って逃げ道を塞いでおいて、それから内側を爆撃した−文字どおりの絨毯爆撃−のだと、吉永小百合さんの原爆詩の番組で知った)
これは文春だけではなく他の新聞雑誌も全てそうだったのだろう。ほかの論調など許されなかったのだ。
ラジオでもひっきりなしにこういうアジテーションが流されていたのだろうし、その重苦しいムードを耐えに耐えた当時の国民のことを考えると、たまらなくもなった。 (その方々が現在所在不明とされることにも…)

煽る側も必死なのだ。自分は戦場には行かないが、己の文が銃弾であると信じて、何やら宗教色すらうかがわせる檄文をしたためる。売文稼業の悲しい性といってしまえばそれまでだが、現代の感覚からは得体の知れない異様な狂熱と自己陶酔ぶりが虚しくておそろしい。
今さら戦争の非など説くわけにはいかない。引くに引けない、戻るに戻れない。「もうだめだ」と筆を投げることもできず、どうにも引っこみがつかない切羽つまった状況が文面ににじみ出ているようで、今風の言葉で言えばしみじみと「痛い」のである。



文化人・知識人が戦意高揚と体制護持を叫んだ記事に比べると、報道班として派遣された作家のルポは淡々と物静かに兵隊と戦場を描出していて、激越な調子ではないのに、戦争という魔の広大な暗さをよく伝える読み物になっている。
ビルマ戦線(1944年のインパール作戦)を取材した火野葦平の「兵隊の戒律」は従軍記でありながら、すぐれた戦記文学としても成立していると思う。
物資補給線上の河川の橋架任務にある一工兵隊を取材した記事である。前線を分断孤立させるために敵機が橋を爆撃する。隊員はすぐに修復して新たな橋を架ける。また敵機が来て橋を落とす。すかさずまた架ける。切り出した木材を運んで橋を渡すだけに特化した一部隊。あるのは工事道具一式だけで銃装備を持たない。落とされ、架ける、その単調な繰り返しがイタチごっこのごとく続いて、いつしか彼らの日常になっていく。彼らには川向こうの戦局はもはや重要ではない。作戦上のそのルートの重要性もさしたる関心事ではない。ただその橋を失わないこと、それこそが彼らにとっての戦争なのだ…

また、ことさらに感傷的にならずに特攻出撃前日の若者(‘神鷲’と呼んだらしい)の姿をすがすがしく描いた中野実「八紘隊は征く」も良かった。

昭和二十年、「文藝春秋」は三月号のあと、印刷所の焼失、用紙調達の困難(それに執筆者や編集部員の疎開もあっただろう)のため半年間の休刊を経て十月号から復刊した。終戦前の戦争末期と終戦後の記事内容の変化を見られるのが本書の最大の特徴である。
十月号以降の記事では、原爆と特攻を日米の文化比較とした「原子爆弾と斬込特攻隊」、復員する日本人捕虜の問題(敗戦後に投降した者と戦中に俘虜になった者とで差別があった)を訴えた「俘虜について」が興味深かった。
戦中にアメリカが捕虜名簿を(戦時国際法に則って)送ってきたが、「日本軍人に捕虜になる者などいない」として突き返したというのだから、あきれるほかない。軍の公報で玉砕として戦死が伝えられていながら生還した者たちは「名誉の戦死」ではなく「生きて虜囚の辱めを受けた者」として白眼視されたというのにも、あきれるほかない…
これは何百年も前のことではない。六十五年前のこの国のことなのだ。「あきれるほかない」なんて言っていてはいけないのかもしれない。



各号の表紙写真、その裏ページには該当月の戦況、出来事を記した年表が附されている。各記事の最後には解説も加えられていて、記事の背景を教えてくれる。思った以上の好企画・好編集の保存版だ。



一つだけ気になったことを記しておく。
文藝春秋としての戦後処理」的な記事は本書には載せられていなかったが、戦中の戦争協力を反省・謝罪した声明ははどこかの号で発表されたのだろうか? 言論も表現も自由が認められていなかった時代とはいえ、軍部主導の誌面制作だったことへの言論機関としての自戒は表明されたか? 復刊第一号での菊池寛「其心記」はなんだか言い訳めいて歯切れが悪かったが。
これも文春にかぎらない。大新聞にも同じことを聞きたい。
戦争礼賛の記事を書いたライターたちは敗戦後、どのような態度を示したのだろう。たとえばフルトヴェングラーは非ナチ化裁判を経なかったらベルリンに復帰できなかった。それほどの厳しさを持って、当時の日本の文化人は戦後を迎えただろうか?
もし戦犯として裁かれることもなく何かしらの反省も謝罪も表明しないままなのだったら、それではまるで日本みたいじゃないかと笑えばいいのだろうか?
結局このときの緩さ甘さが現代まであらゆる面でつながっているのではないかと思えてくるのだった。


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火野葦平『麦と兵隊』については開高健が『紙の中の戦争』で書いていたと思う。
今回初めて火野葦平の文を読んだのだが、その第一印象は… 開高健に似ている! 文章のリズムや熟語の選び方・使い方に同じ匂いを感じた。
といっても火野の方がずっと先なのだから……殿下は火野作品をよく読んでいたのかもしれない。これまで開高殿下の文体はまったく独特のものだと思っていたので、ちょっと意外な発見をした気分でいる。(全然かんちがいかもしれないけど)