レイ・ブラッドベリ / 火星年代記 [新版]

去年の夏は短かった。ちょうど一年前、ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』ハインライン夏の扉』を読んだのだった。時の過ぎるのが本当に早い。今年もブラッドベリハインラインのSFクラシックを一冊ずつ。


これも大昔に読んだはずだけど、さっぱり記憶にない。しかも何を血迷ったか、ペーパーバックを買って自分で訳そうとまでしたはずで、それは覚えている。そのために買って数回開いただけの研究社の大英和が今も部屋にあるのだが邪魔でしょうがない。当時はこれなら訳せそうだとでも思ったのだろうか。若気の至りというかなんというか…(しみじみ)。



【レイ・ブラッドベリ / 火星年代記 [新版] (414P) / ハヤカワ文庫SF・2010年 (100830-0903)】
THE MARTIAN CHRONICLES by Ray Bradbury
訳:小笠原豊樹



・内容紹介
 火星への最初の探検隊は一人も帰還しなかった。火星人が探検隊を、彼らなりのやり方でもてなしたからだ。つづく二度の探検隊も同じ運命をたどる。それでも人類は怒涛のように火星へと押し寄せた。やがて火星には地球人の町がつぎつぎに建設され、いっぽう火星人は…幻想の魔術師が、火星を舞台にオムニバス短篇で抒情豊かに謳いあげたSF史上に燦然と輝く永遠の記念碑。著者の序文と2短篇を新たに加えた新版登場。


          


ブラッドベリ自身の意向で改編された『火星年代記』が[新版]として登場した。冒頭にこの名作が誕生した1950年頃当時の裏話を紹介した書き下ろしの序文が新たに附けられている。
当時二十代半ばでまだ無名だったブラッドベリ青年は未来の火星を舞台にした掌篇を書きためていた。彼が「この半分でも近づきたい」と頭の中にあったのはシャーウッド・アンダーソン『オハイオ州ワインズバーグ』だった。
…あれ? その書名、最近目にしたな、と思ったら…(!) 開高健がアンダーソンについて書いた文をつい先日読んだばかりだった。


開高健の文学論』(中公文庫)のいちばん始めにその文はあった。
それによると、〈二十四の独立した短篇が有機的なつながりをもって一つの世界と雰囲気を提示する〉連作短篇集のようである。ありふれた田舎町のありふれた市民生活を〈人物の内部に深針を入れ〉て描いてみせ、〈どんな人間も何らかの意味で不具であり、グロテスクなものを持ち、抑圧され、不安定であることを教えてくれる〉。彼の鋭いペンは後に続くロストジェネレーションの若きチャンピオンたち−ヘミングウェイ、フォークナー、コールドウェルら−に多大な影響を与えたと巨匠は書いている。


まったく知らない作家と作品について、たまたま続けて読んだ自分の好きな作家二人が口をそろえて絶賛している。しかも片や日本の文豪で、片やアメリカSFの神様。どこにも接点はなさそうな二人なのだから、面白い。不思議なものだ。これもブラッドベリ・マジックなのかも。
(アンダーソンの作品は『ワインズバーグ・オハイオ』のタイトルで講談社現代文庫のカタログにある)



ロケットの夏」から「100万年ピクニック」まで全26篇。地球人が初めて火星に到達する2030年代から三十余年の火星と地球の断片的な出来事を織り重ねてアンソロジー風にまとめてある。
それぞれの物語が別々のスタイルで書かれていて、詩的なものもあればスラップスティック調の作品もあり、後の『たんぽぽのお酒』に通じるノスタルジー溢れた語り口の作品もあって構成はバラエティ豊か。もちろんイリノイ州グリーンタウンの地名は所々に出てくる。ポーへのオマージュでもある「第二のアッシャー邸」は『華氏451度』のモチーフのようにも読める。
未来の火星を舞台にしながら全篇を通して伝わってくるのは、失われた、あるいは滅びつつある文明へのたっぷりの郷愁である。科学の進歩が宇宙進出を実現したというのに、ブラッドベリは失われた世界を見つめている。


未知の惑星に探検隊が到着して最初の杭が打ちこまれる。探査の頻度は増し規模は次第に大きくなっていく。地球から持ち込まれた細菌によってあっけなく火星人は死滅してしまい、やがて地球人の入植が始まる。かつてそこにあった町の名前は棄てられ、新たにアメリカ風の名前がつけられた町が続々と建設されていく。舞台は火星のはずなのにこの地球上の出来事のように書かれていて、こういう流れはきっとこれまでの人類史上でたびたび起こったのにちがいないだろうと想像させる。
文明の拡張と発展というものは、一方でそこにもともとあったはずのネイティブを駆逐するという側面を持つ。過去の文明を侵略侵害することで現代文明は築き上げられてきた。
ブラッドベリはそんなことを一言も直接的には表現してはいないが、古い町が滅びて新しい清潔な町がつくられていく過程には、自然環境への過分な干渉や勝者としての新文明の驕慢が下地にある。そして、その行き着く先は…
数年前に第二次大戦が終結して好景気に沸く戦勝国アメリカで、ブラッドベリは日々こういう物語の創作に耽っていたのだった。

「火星人たちの持っていた物が、われわれの持ち得るどんなものにも負けないということが分かったからです。かれらは、われわれが百年も前にストップすべきだったところで、ちゃんとストップしました。わたしは、かれらの町々を歩き回ってみましたが、かれらのことを知れば知るほど、わたしの先祖と呼びたくなる気持でいっぱいです」  ― 〈月は今でも明るいが〉より 


おそらくこれを書いていた当時まだ若かったブラッドベリに、人類が異星に行くことの意義を問う意識なんてなかっただろう。古代史や宇宙科学に頼らず、ただただ想像で物語を書こうとした。小説家としての作風も定まっておらず、現在考えられるSFというジャンルへのこだわりだってなかっただろう。なにしろまだアポロもソユーズも飛んでいない時代だ。だからこれはSFではあるけれど、科学よりも空想の力のみで奇跡的に成り立ってしまった純真無垢な作品集なのである。
そうした非科学的姿勢はおのずと環境保護的でもある。宇宙に関する情報量は現代の方がはるかに豊かだが、その宇宙のイメージはたいがいハリウッド製の捏造ばかりではないか、自分の感覚は毒されているのではないかと疑ってみてもいい。
いつのまにか自分の周りにも衛星通信を利用した製品が増えている。地球が飽和状態になっていまや人工物の衛星やロケットを発射し続け、故障したら回収もしないでそのまま宇宙空間に廃棄。「地上で処理解決できないものは宇宙に持ってってしまえ」そんな時代になりつつあるような気もするのだが、ではそういうことは「宇宙という環境」にとってどうなのだ?とは誰も言わない。
科学的には幼稚で未熟だったとしても、本書の新鮮な想像力は永遠不滅だ。文明の真価が発揮されるとき、願わくば人間の優しさも火星に届きますように… 純真な想像力の結果をただ科学技術の成果に終わらせないところがブラッドベリが魔術師たる所以である。



火星人を醜悪で好戦的な宇宙人の定型にはめないのも著者の良心だろう。ある章ではわれわれと同じような人間型で、ある章では青白い火の玉であり、ある章では相手のイメージを読んで鏡姿形を変えることもできる能力を持つ生物として描く。時空感覚のずれがあって互いを実在として見たり触れたりできない存在だとする「夜の邂逅」は、それでも地球人と火星人がかすかな交流を果たしてじんわりとした余韻を残す傑作。


ほとんどが火星に移住した地球人のエピソードなのだが、個人的にベストの一作は、火星に旅立つ女の子を描いた「荒野」。これは小川一水が束になってもかなわない、メルヘンチックな珠玉の逸品。
火星で働く恋人のもとに行く決心をしたジャニスは出発の前夜、‘無重力ベルト’を借りて故郷の空を飛んでみた。この夜間飛行が、ただ美しく叙情的なだけではなくて、泣けた。そして彼氏に電話をかける。地球から6000万マイル、音声が届くまで五分。受話器を握りしめ、彼方からの返事に耳を澄ます。ところが電波状況が悪いのかノイズ混じりで聞き取れない。だけどジャニスにはたしかに懐かしい彼の肉声がひとことだけ聞こえたのだ。黒々とした宇宙空間の闇と星々の瞬くあいだをくぐり抜けて彼女に届いた言葉は……!
不覚にもオオカミハートを揺さぶられて、つい火星に向かって遠吠えしてしまったのだった。

…(前略)… しかし、ことばはすでに惑星間の空間にあり、もしもなんらかの宇宙の光輝によって照らしだされたそれらのことばが、熱に耐えかねて発火したとするならば、ジャニスの愛はいくつかの惑星を照らし、地球の夜の側を時ならぬ夜明けの光でおどろかせるかもしれない。ジャニスは思った。もうあのことばはわたしのものではない。それらは宇宙のものなのであって、到着するまでは誰のものでもない。  ― 〈荒野〉より


本書を通読しても火星という惑星や火星人に対しての特定のイメージは残らない。むしろ、鏡のように見せられるのは見なれた地球人の姿ばかりだ。宇宙という環境、宇宙という自然。地球上で冒してきた過ちを、人間は今度は宇宙で繰り返そうとするのか。地球上で解決できない問題を宇宙に放り投げるとき、そこの先住民をおびやかさないための配慮は少しでもなされているだろうか?そういう人間的な想像力は働いているだろうか?

やっぱりブラッドベリはいい。科学に縛られない空想の自由さ健全さがいい。彼の宇宙は軍拡競争と最先端ビジネスにまみれてはいない。宇宙への憧れと畏れが、当たり前に一番はじめにあるのがいい。
再読して、これを自分で訳してみたくなった気持ちもわかった。あのときの自分の感性はけしてまちがいではなかったと思い直す。懲りもせず、ちょっと自分で訳してみようかという気持ちにまたなってきた。