ロバート・A・ハインライン / 月は無慈悲な夜の女王

【ロバート・A・ハインライン / 月は無慈悲な夜の女王 (686P) / ハヤカワ文庫SF・2010年 (100910-0917)】
THE MOON IS A HARSH MISTRESS by Robert.A.Heinlein 1966
訳:矢野徹



・内容紹介
 2076年7月4日、圧政に苦しむ月世界植民地は、地球政府に対し独立を宣言した。流刑地として、また資源豊かな植民地として、月は地球から一方的に搾取されつづけてきた。革命の先頭に立ったのはコンピュータ技術者マニーと、自意識を持つ巨大計算機のマイク。だが、一隻の宇宙船も、一発のミサイルも持たぬ月世界人が、強大な地球に立ち向かうためには…ヒューゴー賞受賞に輝くハインライン渾身の傑作SF巨篇。


          


こちらも今年新装された御大ハインライン(1907−1988)六十年代中期の大長編エンターテイメント。『夏への扉』(1957年)に比べると、持っているもの全部詰めこんだフルサービスな内容で、いろいろな読み方ができると思う。月対地球の戦争。革命と独立の思想。スパイと秘密警察の暗躍。知性的でユーモアを理解する人工知能。ありふれた男が一躍革命戦士として最前線に立つはめになるピカレスクロマン…
基本構造は巨大権力に対するマイノリティのレジスタンスなのだが、強大な地球連邦への月世界の反乱というのだから話は気宇壮大。
囚人や反乱分子、劣勢遺伝子の収容所として機能している月は地球連邦に属しながら差別的・植民地的に扱われてきた。世代が進み、月で生まれ育って地球の圧政に苦しむ人々のあいだに独立の機運が高まる。だが、どうやって?月世界人には自前の武器も宇宙船などないのだ。



主人公マニーは月世界の計算機技師。ある日、彼がメンテナンスを担当している月行政府の情報網を管理する高機能計算機に自意識があるのに気づく。その機械は孤独で退屈していて友人を欲しがっていた。彼はその機械に‘マイク’と名づけ、次第にうち解けた会話をするようになる。
マニーはひょんなことから地球からの独立をもくろむ政治集会に足を踏み入れてしまい、その指導者デ・ラ・パス教授と女革命家ワイオ(お決まりの金髪グラマー)と知り合う。ワイオを助けた縁でマニーは独立運動に関与することとなり、‘マイク’に協力を仰ぐ。

月を流刑地として扱うアイデアや、いたずら好きで愛すべき人工知能‘マイク’、月世界人が文字どおり地球に「石を投げつける」ために実行しようとする作戦‘オペレーション・ハードロック’などSF濃度は高い一方で、現実的な革命闘争とそれに続く外交交渉場面も多く、政治小説的な面白さもある。
月世界人はすでに第三世代であり、地球の六分の一の重力に適応した生活術と独自の習慣文化をはぐくんでいる。もともとは人類の遺伝子を持ちながら地球から追放された彼らが徐々に月に愛国心を抱くようになっていく様子がよく書けている。はじめは無機的で冷たい機械にすぎなかった‘マイク’が、いささか偏向してはいるけれども人間的な感情らしきものを見せるようになっていくのも期待どおりの嬉しい展開。
右往左往する主人公のかたわらで聡明なデ・ラ・パス教授と優秀な‘マイク’―『夏の扉』風にいえば‘ばんのうマイク’― の好キャラクターコンビが何ら破綻なく完璧に仕切ってしまうところも予定調和的だが面白かった。



だが、読んでいてどうもすっきりしない。大筋はハラハラドキドキの連続で飽きることがないし、楽しいのはまちがいないのに、後半のハイライトを無条件に受け入れることができなかった。  
善悪、正邪の単純な二分化の上に成り立つストーリーなのだからつべこべ言わず主人公側(月世界側)に立って読めばいいのだろう。えらそうな地球が手痛いしっぺ返しを食うところは、それはそれで痛快ではあった。だけど…
月−地球間の情報網を一括管理する‘マイク’を使って(ときには彼自らが進んで!)誤情報を流したり通信を遮断したりして地球政府を撹乱する。ストーリー上はなるほど小国が巨大な相手に対抗して優位に立つにはそうでもするしかないだろうとは思いながら読んでいたのだが、でも、そういうのは独裁国家の手口じゃなかったか? 公的な標的を指定して警告を与えた上でミサイルを撃ちこんで民間人を巻き添えにするというのは、絶対にあってはならない悲劇のはずなのに、よくある戦争中の一つの事故として醒めた認識をしてしまっていないか?(…たとえフィクションでも!)
なにか月側の正と善の主張が強ければ強いほど、人類の(というかアメリカの)悪例を正当化して見せられているようで薄気味悪さを感じてしまうのだ。前半にあれだけ延々と崇高な民主革命の必要性を説いていながら、その果てがこのやたら無邪気で自己本位な戦争だというのには首をかしげざるをえなかった。この物語で絶対欠くべきでなかったのは少数精鋭の「ゲリラの美学」だったはずだ。だけどここにあるのは疑いようもない大国の論理で、懲りないアメリカの姿がダブって仕方なかった。
アメリカ独立戦争が原案の下敷きにあるようだけれど、実際に書かれたのはベトナムが泥沼化していく頃。イラクアフガニスタンはまだずっと先なのだから、そういう意味で本作には先見性があったといえば皮肉になるかもしれない。



革命の女闘士は金髪美女だったり、主人公の左腕が工具だったりと、アメコミみたいなイメージも強い。ブラッドベリを読んだあとではなおさらハリウッド色が濃く見える。

もう一つ、読んでいる間じゅう気になったのは訳文。この作品が翻訳されたのは1970年代のことのようだが、いかにもな翻訳文体なのだ。「その」「それ」「それら」等、代名詞そのままの直訳が多いし、登場人物は多くはないのに会話場面で誰の発言なのか不明瞭なところも多くて、読むのにけっこうな時間がかかった。
矢野徹氏といえばSF翻訳の大御所のはずだが、これはあまり丁寧な仕事に思えなかったのだが… 長大な物語だし科学的なプロットを調べるだけでも大変な作業だったろうことは想像がつくけれど。

あとがきによれば日本では『夏への扉』がハインライン作品の中では一番人気だが、アメリカでは本作の方が断然支持されているという。まぁ、なんとなくわかるような気がする。