半藤一利 / 日本のいちばん長い日

先月『昭和二十年夏、僕は兵士だった』を読んだときに、もう少し自分の国がやった戦争のことを知らなければいけないなと痛感した。実体験を持つ者は年々減っていく。この頃は、たいして知りもしない戦争を安易にネタにした小説やドラマを散見する。本読みとしては最低限の歴史知識を持って、きちんとした自分の読書の下地をつくりたい。
戦中〜戦後の昭和史本をいろいろ見ているうちにこの人だと決めたのは半藤一利氏(元・文藝春秋編集長)。多くの太平洋戦争関連の著作がある方だが、まずはこの代表作から。



半藤一利 / 日本のいちばん長い日[決定版](322P) / 文藝春秋・1995年 (100919-0923)】

 (※単行本化は1995年だが、当初は1965年、大宅壮一編として刊行されていた)



・内容紹介
 昭和二十年八月、広島と長崎に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略。もはや日本の命運は尽きた…。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を綿密な取材と証言を基に再現する。天皇の「聖断」に従い終戦への道筋を模索する人々と、徹底抗戦を主張して蹶起せんとした青年将校たち―。そのあまりにも対照的な動きこそ、この一日の長さを象徴するものであった。昭和二十年八月十五日正午に至る一昼夜に繰り広げられた二十四幕の人間ドラマ。日本史上最も長い一日を活写したノンフィクションの名作。


          


1945年8月14日正午から15日正午の玉音放送まで、日本の命運を決めた内閣と軍中枢の24時間を一時間ごとの時系列にそって再現したドキュメント。ポツダム宣言受託決定から発布まで、時を争うようにして進められた陸軍有志によるクーデター計画と平行して帝国最後の一日の緊迫を追う。
降伏の意志をもっと早く表明していたら原爆の投下は防げたかもしれない。なぜ終戦の決定にそれほど時間がかかってしまったのか。軍人、とりわけ帝国陸軍にとって降伏とはどれほど屈辱的なことだったか。彼らが政府決定を覆してでもこだわろうとした「国体の護持」とは? 天皇玉音放送にたどりつくまでの一字一句をめぐる紆余曲折… 戦後生まれの非当事者としては、歴史の授業では知ることのできないいくつも「なぜ?」に答えを得ることができて、本当に読んで良かった。
一国家としては瀕死の態にあって、もう一日延ばせば完全に息の根は止まるかもしれない。見えないタイムリミットに向かってギリギリの折衝が続けられる。そんな状況下でも神州不滅の信念に殉じようとうごめく輩がいる。読んでいると、このときの政府と軍部と天皇が動かそうとしていた日本という国家が一体の生き物のように、なにか熱い息を吐きながら悶え苦しんでいる多頭多足の巨大な化けもののように思える瞬間があった。



8月14日の夜にもB29の大編隊による空襲があって、高崎・熊谷・小田原が焼かれた。灯火管制でまっ暗闇の中、ただじっと爆弾が落ちてこないのを祈りながら警報解除を待つのはどんな心持ちだったろう。8月6日以後の空襲警報は原爆の恐怖との戦いでもあったのだ。サイレンが鳴り響く。今度のは原子爆弾かもしれない。国民は神経をすり減らして眠れぬ夜をすごしていたのだ。
その夜、御前会議を経て翌正午発表と決まった終戦詔書を完成させるための閣議が慌ただしく続いていた。書き足し、黒く塗りつぶした箇所そのままの詔書が宮城(皇居)に持ち込まれたのは日付が変わる数時間前。天皇はそれを二回読み、一回目のテイクが放送に使われることになった。あとは翌日それが放送されるのを待つのみだったのだが… その放送を阻止しようとする一団があった。

深夜一時過ぎ、無条件降伏による終戦を肯んじえない近衛師団青年将校たちが蹶起する。師団長を殺害し天皇を擁して徹底抗戦を実現せんと宮城を占拠したのだ。
彼らは宮城を封鎖し、宮内省に保管されている玉音録音盤の強奪をもくろみ、15日早朝には放送会館(現NHK)まで占拠したのだった。そしてその朝、陸軍大臣阿南惟幾は自刃した…

軍の一部に叛乱の動きがあった程度のことはこれまでに聞いたことがあったが、それがこの「宮城事件」なのだった。この一昼夜のドキュメントの中では、戦争に終止符を打ち、終戦を形にする実務者として天皇鈴木貫太郎首相はじめ重臣たちの重苦しい‘静’と対比して、深夜から未明の闇に乗じて、強引に歴史の歯車を動かしてしまい一気に主役に躍り出んとする青年将校の狂信的な‘動’が描かれる。殺気立ち、血走った眼の者らによるその小さな暴発は全陸軍蹶起という壮大なシナリオの発火点となるはずだったが、肝心の導火線は寸断されていて、夜明けとともに空しく失火する。
(表舞台に対する舞台裏、影の部分のクローズアップがやや相対的なバランスを欠くように思えた)

「軍人」というものをまったく理解できない自分には、この事件はまったく愚かな、思い上がった行動だとしか感じられなかった。しかし、それまで信じてきたものがある日を境に無に帰すること―それが天皇の「聖断」であろうと政府命令であろうと、外圧だろうと―への絶望、喪失感は理解できないわけではない。



15日の朝はなにごともなかったかのように始まった。真夏の太陽がじりじりと照りつける暑い日になった。朝から繰り返し正午に重要な放送がある旨がラジオで伝えられた。枢密院議会に列席していた天皇自身も控室で、ただひとりラジオから流れる自分の声に耳を傾けたという。
変な話だが、この当時にはエアコンというものはあったのだろうか? 真夏の盛り、激論が交わされ熱気と焦燥、憔悴が渦巻く閣議室や御文庫に空調は利いていたのだろうか? 終戦関連の書類は汗を吸って湿気ていたのではないだろうかと、そんな想像をしてみた。

ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの伝達ミスのように、小さな出来事が重要局面で決定的に作用するということは歴史上数々起こってきた。のちのちわれわれはそれを裏話として語るようになるのだが、日本帝国終結直前のこの裏話はあまり話したくない種類のものだ。もし宮城占拠に全軍が呼応していたら、もし玉音放送録音盤が叛乱将校の手に渡っていたら、などとあらぬ想像をする必要などないのだろう。
しかし、年表を見て大局だけ眺めてみても、日本のあの戦争はなかなか見えてこない。ドイツのヒトラーやナチ党のような特定の扇動者がいないにもかかわらず、この国は戦争の道を邁進したのだ。軍人、陸海軍がどんな存在だったのかが大きな鍵であることを本書は教えてくれた。
当時の政府首脳と軍上層部のドラマだから、民間人の生活実感からかけ離れた印象をぬぐえないのは、歴史を語る難しさ、もどかしさであって、どうしようもないのだろう。



(もうこれは本書の感想からはずれるけれど)それでもなお、どうして?とやりきれない思いが新しく芽ばえてくる。
終戦史に関して自分がもっとも知りたいのは、当時の東京の内閣政府、陸海軍中枢は実際に広島と長崎の壊滅的打撃をどこまで把握していたのだろうかということ。民間人の被害を大本営はどう伝えたのか。終戦をめぐっての話を見聞きするたび、原爆と終戦がリンクされていないと感じることがあるのだ。広島長崎の大被害と帝国の戦争、それに沖縄戦とがそれぞれ別個に語られ、実際にはわずか十日のあいだなのに、8月6・9日と15日が断絶した日のように感じられることがある。戦後65年たった今、自分はそう感じる。これはどういうことだろう? 政府判断の誤り、遅さが原爆投下を招いたという事実が、あまりに語られなさすぎるのではないか?
長崎に二発目の原爆を投下されて六日後に終戦とは、遅い。ソ連の仲裁工作の結果を待っていたために時間がかかったとは本書にも書かれているけれど、それでも、あまりに悠長ではないか。もとより現在ほど非常時の情報通信・交通網が整備されてはいなかったにせよ、被害状況を正確に知り迅速適確に救急対応をとるという基本的なことが当時の政府にできていたのだろうか? 東京にいた軍首脳は原子爆弾についてどれだけ情報を持っていただろう(当初は‘新型爆弾’と発表。玉音放送では‘新ニ残虐ナル爆弾’と言っている)。また、あくまで本土決戦を強硬に主張しクーデターを画策した将校らは首都に原爆が落とされる可能性を考えたうえで、なおも抗戦を主張したのだろうか?

それと、当時の外交能力にも疑問を感じる。そもそも外交というものがあったのだろうか? 事前に休戦・停戦交渉など何もなく、いきなり終戦の話に飛ぶ。敵味方双方の捕虜の扱いはじめ、条件をすり合わせる機会も一度もなく、傍受したサンフランシスコ放送から(公式文書ではなく)ポツダム宣言の内容を知る。そして「subject to」の解釈をめぐって和平派と抗戦派で意見が分かれ、当初「黙殺」の政府方針が誤って「拒絶」と連合国側に受け取られて、アメリカに原爆使用を決断させた… 外交云々以前に、たんに英語力とコミュニケーションの問題だったのではないかと思えてくると、あまりに馬鹿馬鹿しく情けなくなってくる。「国体の護持」はいいが、その前に一国家としてまともに機能していなかったのではないかと思えて仕方がないのだ。


 ………


これ以上は本の感想から逸脱してしまうので止めよう。新たに?が次々と浮かんでくる。また答えを得られそうな本を探して読むつもりだ。

それにしても自分がこういう本を読むようになるとは自分でも意外なのだが、きっかけは今年になって読んだ奥泉光『神器 軍艦「橿原」殺人事件』なのだ。その感想にも書いたけれど、玉音放送終戦の詔)を初めて全文通して読んだのはその『神器』だった。
奥泉さんの新刊『シューマンの指』も早く読みたいが、まだしばらく先になりそう…