J-P.サルトル / 嘔吐 (白井浩司 訳)

夏から続けて読んでいる開高健のエッセイ集には、作家の読書体験を綴った文章も数篇あった。あの粘りけのある濃密な文体がいかに創造されたのか、ヒントがあるかもしれないと興味深く読むのだが、雑食性の多読乱読の人だけに決定的なこの一冊の類は出てこない。しかし、チェーホフの短篇とともにもっとも頻繁に名を挙げている書物が『嘔吐』だった。

開高健と『嘔吐』。どうもイメージがつながらないのだが、殿下は青年時代にこれを貪り読んで、また作家として大成した後もたびたび本を開いていたという。60年代には大江健三郎と一緒にパリまで行ってサルトルに会っている。

「『嘔吐』をはじめて読んだとき、活字が白い頁から一個ずつ勃起してくるのを目に見るような気がした」 ― 自分は過去何度か挫折しているのだが、殿下がそこまでいうのなら知らぬままでは通るまい。今年七月、六十年ぶりの新訳が出たのを機に、殿下のテキストに背を押してもらいながら再挑戦することにした。
まずは、開高健も読んだ白井浩司氏の翻訳版から。



【 ジャン-ポール・サルトル / 嘔吐 (306P) / 人文書院・2004年 (101002-1008) 】

JEAN-PAUL SARTRE [La Nausée ]
訳:白井浩司



・内容
 サルトルの精神形成を知るうえで欠かすことのできない「実存主義の聖書」であり、また実存主義思潮の熱い季節が去った後も、人生とは何かを真正面から純粋に追求した類稀な小説。実存と不条理を描く現代文学の古典。


          


あのサルトルの『嘔吐』、La Nausée ラ・ノゼである。この場合、「あの」の部分を深く突っこまないのは昔からの暗黙の了解である。
とにかく、日本で『嘔吐』といえば白井浩司氏(1917−2004)の翻訳版を指す。1947年に初邦訳が世に出され(青磁社刊―開高は赤い表紙のそれを最初に読んだと書いている)、その後1951年に人文書院からサルトル全集の一巻として刊行されると、それ以後、実に五十年以上にわたって改訳改訂を繰り返し版を重ねてきたのだ。
哲学小説ということで文学者が手を出しかねたということもあっただろう。(自分は知らないが)サルトル人気と実存主義ブームの時代もあって、他の訳者がおいそれと手を出せない状況もあったのかもしれない。
今回自分が読んだのは1994年改訳新装版の2004年重版で、ほとんど新品同様の状態で本棚の奥に埋もれていた(情けない… 今これを書いていて気がついたのだが、これが白井氏の『嘔吐』翻訳最終版ということになる)。さらにその下敷きになってもう一冊、学生時代に古本屋で買った昭和41年(1966年)版も出てきた(笑)。ビニール掛けのソフトカバーで古いとはいえ状態は悪くない。帯に「廿世紀十二大小説の白眉!」と銘打たれているのには時代を感じるが、さて十二大小説とは?


          


見栄で買った部分もあったので、どちらも購入当時は半分もいかないで途中で投げ出した。「伊勢エビの孤独」がどうしたとかついていけないと多感だった学生時代の日記に言い訳を書いたおぼえがある。そんなことを思い出してもう読む前から降参したくなったのだが、今回は最後まで読む。ちんぷんかんぷんでも放り出さずに最後まで行く。内容には期待していないし理解できないのもわかっているのに、なぜだか意欲だけは異様に高いという変な読書だが、それでもいい。「参加することに意義があるのだ」とか「スタートラインに立った時点であなたは勝者なのです」とか何とか、自分を鼓舞しながら読んでいった。



プーヴィルという港街でロシア史を研究している独身青年アントワーヌ・ロカンタンの孤独地獄。30歳の彼は金利生活者であって、ホテル暮らしをしながら図書館に通って執筆を続けている。ある日、海辺で小石を投げていた彼は小さな異変を感知する。それから周囲のあらゆる事物に違和感を持ち始める。目にする植物、テーブルに置かれたビールのコップ、自室のドアノブ、鏡に映る自分の顔… 〈吐き気〉をともなう不快感が次第に彼の生活を侵食していく。
ほとんどストーリーらしきものはない。ロカンタンの日常が異様な近視眼的視線の日記形式で独白されているだけだ。思索というよりは強迫観念に憑かれた躁鬱的な記述が続く。現代ならば統合失調症とされそうな症候も見られるのだが、ここでは感情表現をしない内向的な人物像として描かれている。



はじめはただ文字を追うだけだったので、読み始めるとすぐ眠たくなってしかたがなかった。難解な哲学用語が並んでいるわけではないが、インテリ臭く、まわりくどくて勿体ぶった自己観察が肌に合わなくて、なかなか主人公への共感までには至らない。

ロカンタンは自分を孤独な人間だという。しかし、実際には毎日のように通うなじみの食堂やカフェがあり、仕事場である図書館には決まって顔を合わせる人物がいて、親しくはないにしろ知人もいる。元恋人との再会という通俗的な小事件も起こる。彼はけして社会と断絶しているわけではない。それでもサルトルは一見したところでは不自由のないインテリ青年を、蟻地獄のような孤独に苛まされる男として書くのに選んだ。
孤独だと強く自覚する自己を見つめ続けた結果、ロカンタンはこわれつつある。図書館で知り合った独学者に憎悪とも呼べる激しい嫌悪感を抱く。彼もまた孤独な独学者は第一次大戦で捕虜になり、その経験から社会党員になったことを告白するのだが、ロカンタンは彼の口にしたヒューマニズムを冷笑しつつ軽蔑する。
それが自分には何かの反動のように感じられた。孤独だといいながら左翼的連帯を好む矛盾を笑ったのか、あるいは閉塞と倦怠に膿んだロカンタンの軽い嫉妬だったのか。
(本作品が発表されたのは1938年。のちの第二次大戦でサルトル自身もレジスタンスと左翼活動に身を投じ捕虜収容所に送られた。戦後、政治運動の連帯を訴えアンガージュマンを提唱するようになるのだから、この独学者もサルトルの分身といえるのではないか?)

私はどんなにか成るにまかせ、自分を忘れ眠りたかっただろうか。しかしそれはできなかった。息が詰まるようだ。実存は、目や鼻や口やいたるところから、私の中に侵入してくる……
 そしてたちまち一挙にして幕が裂け、私は理解した。私は〈見た〉。


真ん中ほどに出てくる彼が研究を断念し、ナイフで自傷して自分をとらえている観念への省察の泥沼に落ちていく場面 ― 「われ思う故にわれあり」 が出てくる ― は読んでいて脳みそが沸騰しそうになった。
「わたしは考えたくない…。私は考えたくないと考えている。私は考えたくないのだということを考えてはならない。なぜならそれもまたひとつの考えだからだ。」という堂々巡りの自己問答をぐるぐる続けるくだりには、いい加減にしろ!と言いたくなる。その数ページの間にいったい何回「実存する」「在る」と書かれているか数えてやろうかと思ったほどだが、目眩がしそうなのでやめておいた。
サルトル実存主義思想が議論や社会闘争を経由しないで一人の生活者の徹底的な内省と凝集から生まれたのなら、軋みたわむ歪刑の妙な熱っぽさは確かにそこにあった。一言も発せずにただ吐き出される生々しい息づかいが文字の列なりから立ちのぼってくるようでもあった。それは少々滑稽な、知的青年を冒した蒼い孤独の産物だったのかもしれない。



なんとか最終ページまでこぎつけたはしたが、やはり「実存」とは何なのかはよくわからぬままだった。
「実存」の観念そのものよりも、サルトルが三十代前半の若さで書いた近代的孤独の心象ばかりが、強く心に残った。表面的には平穏に社会生活を営んでいるようにみえても、心の裡には空洞が、ぽっかりと開いた穴がある。それをのぞきこもうとしてロカンタンは落下していく。孤独を意識しすぎることは抑圧にも似た閉塞状況を認識することでもあるのではないか。

彼がドアノブや公園のマロニエの木の根に感じたのと同じものを、自分は本書を読んでいて経験したような気がする。うわべだけは取り繕ってきた現実の破綻。その破れ目にすべりこむ孤独の魔。その内省の甘い青臭さに自分は苛立ちを感じたのだが、もしかしたらそれはロカンタンの〈吐き気〉と同質だったかもしれないと、ふと思った。それが偶然にしろこの作品の本質に触れたことになるのか、実際にこの手に持って目で見た物としての本の感触にすぎないのか、あるいは自分の中にあった『嘔吐』と哲学者の先入観への訂正か、あるいは抵抗だったのか。それとも読んだときの気分にすぎないのか、判然としない。ただ茫然と〈それ〉を感じた。
この本は、ロカンタンの小石…? それが実存主義というものへの第一歩なのだとしたら、自分はけっこういい線いってるということかもしれない。著者の策略にまんまと嵌められたということでもある。そんなことはないだろうか。どうですか、サルトル先生?




……強引にまとめてはみたが、何に対してもたいした刺激を感じなくなってしまった今の自分の感想は、若い感性で「さまざまな本に泥酔していた」開高健がつかんだものには遠く及ばない。

観念としての孤独を描いた作家にはたとえばドストエフスキーがあるが、『嘔吐』は卓抜で明晰な比喩を駆使し、暗いが煌めく詩情と、圧倒的な肉感で、ちょっと類のない地獄を提出したのだった。“心”をひとところにたちどまって徹底的に凝視すると何事が発生するか。自己の眺める自己は存在できるか。このテーマは短篇の『一指導者の幼年時代』でもしぶとい、執念深い低声で内的独白として語られているが、『嘔吐』は事物の反乱(そして氾濫)という新しい形相を導入した。   ― 『開高健の文学論』より


また、白井氏の訳についてはこんな記述をしている。

白井浩司氏の『嘔吐』も稀な名訳だと思う。戦後はじめてなにげなく青磁社版で読んだときには、完全に粉砕された。もうこれ以後文学作品はいっさい無用だと思ったほどだった。
 ……(中略)……
三十年間白井さんは『嘔吐』を育て、凝視し続けてきたのである。冷たい正訳が熱い名訳であるためには魔にかすめられることがあるかないかにあると私は思う。白井さんは若い或る日に魔を見たことがあったのだ。   ― 同上


とにかく、とりあえず無事完走、じゃなくて読了してほっとしている。さて次は新訳の方に挑戦だ!