J-P.サルトル / 嘔吐 (鈴木道彦 訳)

『嘔吐』六十年ぶりの新訳刊行は新聞各紙の文化欄でも採りあげられていたから、たぶん自分より上の世代には、ちょっとした事件だったのではないだろうか。

今回『嘔吐』を二冊続けて読んだわけだが、白井版「旧訳嘔吐」と鈴木版「新訳嘔吐」を細かく読みくらべしたわけではない。二回続けて読んでみたというだけだ。
前回は哲学を意識しすぎたので、正直読んでいて疲れてしまった。現代的に新訳されたということで今度はもっと小説・読み物として読むことをこころがけた。ロカンタンの思考地獄以外の部分を前回よりは丁寧に読んだつもり。



【 ジャン-ポール・サルトル / 嘔吐 [新訳] (338P) / 人文書院・2010年 (101009-1012) 】
JEAN-PAUL SARTRE [La Nausée ] 1938
訳:鈴木道彦



・内容紹介
 20世紀フランス文学の金字塔、60年ぶり待望の完全新訳!港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは…… 一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。存在の真実を探る冒険譚。


          


主人公ロカンタンが研究しているのは十八〜九世紀初めのド・ロルボン侯爵という人物。フランス宮廷と帝政ロシアに巧みに取り入ったドンファンで東方各地へと旅した冒険家でもあるらしい。ロカンタンが数年前から(架空の)プーヴィルという町に暮らしているのも、そこの図書館にロルボン卿の資料が豊富にあるからである。研究論文の対象とするほどにその人物に興味を持ったのは、彼が波瀾万丈の冒険的人生を生きたとロカンタンの目には映ったからだった。
歴史資料に目を通し、モスクワで文書を盗み出すまでして生前のロルボンの行動を追い、歴史の表舞台にはけして表れなかった男の野心を追求してきた。ロルボンの人生に没入するあまり、しばしば彼は自分とロルボンを同一視するようになり、次第に混同までするようになっていく。そうすると、しばしばロルボンが彼の思いこみどおりに動いてはいない事実に直面する。彼の期待(想像)と事実の整合性に齟齬が生じ、次第に研究は行き詰まっていく。
数年を費やす間に自分の分身であるかのように胸中にロルボンを生かし共犯関係を築いてきたというのに、ロカンタンは〈存在〉はそこにある現実以外にはないと考えるようになる。過去は存在しないのだとすると、ロルボンは死ぬことになる。それは冒険を夢想するロカンタンの敗北と喪失だった。それが彼が捉えられていた〈実存〉の観念に傾斜していく一側面だった。



プーヴィルでの数年間、研究と論文執筆だけが彼の仕事だった。本来彼のような研究者には休日などないはずだが、彼は日曜日には仕事をしないで一日中外出する。ミサが終わって教会から出てきた人の群れに混じって町の通りという通りを歩いて過ごす。周囲の人物、家族を観察しながら、内心では彼らを小市民として嘲っている。
一人で入る居酒屋でも周りのテーブルが気にかかる。持参した本を読むふりをしつつ隣に座ったカップルの会話や女の仕草を事細かく記憶していて、それをいちいち日記に書きつけている。そうした彼の行動からは、どこか孤独(独身であり世間的には無職とみなされること)を恥じ、世間体を取り繕おうとする一人芝居の様子がうかがえる。

友人らしい友人もいない彼の唯一の希望は数年前に別れた元カノ・アニーとの再会だったが… 「君と再会したのに、もう別れなければならないのか」と未練がましい彼を、アニーは「いいえ、違うわ。あなたは再会もしてないのよ」とあっさり突き放す。この女の一撃は実に強烈だった!(べつに自分に身に覚えがあるわけではないが)。 過去をひきずってきた男が、今まさに女に捨てられてみじめな現実を噛みしめる大衆小説的な痴話なのだが、ここは「存在は現実であり、過去は存在しない」とする観念をロカンタン自身がはからずも自らの破局で実証してしまう皮肉な展開でもあるのだった。
だいたい男は過去を美化してぐずぐずするのに、女の方は本能的にか現実的なのか、いつのまにかさっさと新しい相手を見つけてくるのはサルトルの小説でも同じなのだった。サルトル青年にもそんな経験があったのだろうかと思うと、ちょっと嬉しいではないか(べつに自分に身に覚えがあるわけではないが)。

同じ図書館仲間の「独学者」もロカンタンの目前で失態を晒して去ってしまう。ロルボンとは訣別、アニーはパトロンとイギリスに行ってしまい、唯一の知人といえる独学者すら消えてしまった。物語の最後の方が、〈存在〉の観念に気づいたときよりいっそうはっきりと孤独なのである。海を見てはその水面下に巨大エビがうごめくのを妄想して恐怖にすくみあがっていたロカンタンは、そんなものよりもはるかに空虚で残酷な現実を思い知るのだった。

私はなるがままになり、自分を忘れて、眠ってしまいたい。だが、できない。息がつまりそうだ。存在は至るところから私の中に入りこむ、目から、鼻から、口から、……。
 そして突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、私は理解した、私は見た。


どうしてもマロニエの木の下で〈実存〉に肉迫する場面がこの作品のハイライトとして印象が強いのだが、こうしてみると始めから終わりまで一篇の物語として実によく整理され構成されているのがわかる。
もはや存在理由はないのに自分は存在しているという矛盾、人間だけでなく物や植物さえも、ただ偶然そこに〈在る〉のだという発見にはロカンタンの自己嫌悪や潜在意識下の自己弁護も含まれているのではないか? …というのはやっと少しだけ主人公に共感を持てた(一部においては妙な親近感を覚えた)素人読者のうがった見方かもしれないが、だからこそ、あのくどくどしい〈実存〉を発見する場面がむき出しの生々しさに満ちていたのではないかと思えてくるのである。
逆にいえば、主人公に〈実存〉を気づかせるためには社会から孤立した、外的要因に影響されにくい環境で生きる人物を構想しなければならなかった。疎外されているのでも抑圧を受けているのでもないが不条理性を成立させる帰属の曖昧な存在。そういう知的で金持ちでナイーブな無神論者の独身男をつくりださなければならなかった。そして、作家サルトルはそれに成功したのである。



ロカンタンは〈実存〉を発見しながらも現実生活では自己の存在理由を次々と失い、町を去ることになる。実存は現在であることを証明するかのように、架空の町プーヴィルから実在のパリへ。この構造に注意して読んでくると、ラストはただ陰鬱なだけではないような気もしてくるのだった。

かなり自分流の読み方をしたとは思うけれど、一読しただけなら見落としていた新しい疑問と発見があって、意外にも愉しんで読めた。熟読すればするほど、違った見方も生まれてきそうだ。自分などまだまだ読みこみが浅いと思う。
いまさらながらに、ただ哲学的考察を小説形式で著したというだけではなく、作品そのものが「廿世紀文学の白眉」というのもなるほどうなずけると思えてきた。


巻末には丁寧かつわかりやすい注釈付き。訳者による「あとがき」も理解を助け深める好解説になっている(サルトル甲殻類が苦手だったとか…笑)。
この訳者はプルースト失われた時を求めて』全訳で知られる鈴木道彦さん。八十歳を越えて積年の念願をかなえたのだから、そのエネルギーには頭が下がる。
白井浩司訳(継続発売される)で日本に定着してきた『嘔吐』がこれからは二種、それも同じ出版社に〈在る〉。この作品をめぐる物語にもきっと興味深いものがあるのだろうという気がする。