稲葉真弓 / 千年の恋人たち

都会暮らしに倦んだ女性作家が志摩半島の荒地に家を建て、手つかずの自然と格闘するうちに生の実感をありありと甦らせていく様を力強い筆致で綴った『 海松 』 が素晴らしかった稲葉真弓さん。
新作はオーソドックスなスタイルの家族小説になったが、やっぱり上手い!



稲葉真弓 / 千年の恋人たち (209P) / 河出書房新社・2010年 (101018-1022) 】



・内容紹介
 突然の夫の失踪。残された石の塔。十数年にわたる魂の彷徨を経て、妻が辿り着いた永遠の真実とは。解き放たれた女の生き方を生命力とエロスの中に描く感動作。川端康成文学賞受賞第一作!

(↑「永遠の真実」「生命力とエロス」とはかなり大仰な表現で引いてしまうが、実際には地に足をつけて進もうとする母娘の爽やかな物語だ)



          


男が建築模型の円柱形の塔にライトを当てて影の出方を熱心に観察している冒頭場面がすごく印象的なのに、次の章からはもうその男は登場しない。建築事務所の経営に行き詰まって彼は失踪してしまうのだ。とり残された妻・佐和は失意を振りはらい新たな生活を始めるために次女の明日香とともに房総半島の実家に移り住む。そこで始めた草木染めは以前からの彼女の念願の一つだった。
幸い良き理解者に恵まれて彼女の「かさね工房」は軌道に乗りだす。自ら野山で採取してきた自然の草木を使って一つずつ丁寧に色を出し布を染めていく佐和とその姿を見守る画廊主の水城。娘の明日香はサーファーの彼と海辺での生活を満喫しているように見える。豊かな自然に囲まれた町で静穏な暮らしが続いていくかに思われたが……



光あふれる南房総の家で母娘は健康的な日々を取り戻した。頭上には無数のカモメが舞い、目前に茫洋とした太平洋のパノラマが広がる庭には佐和が染めた色とりどりの布が潮風にはためき踊っている。
どれも同じように見える葉や蔓でも煮出してみると思いもよらない色が現れる。媒染液との組み合わせによっても出てくる色は変わるのだという。くすんだ深緑の植物から鮮やかな黄色や紫が出てくるのだから、染め物というのは不思議なものだ。そんな不思議な現象を昔の女たちははどうして知ったのか。植物から多彩な色を採ることをどのように見つけたのか。それもまた不思議としか言いようがないが、佐和はその奥深い魅力に生きがいを見いだしたのだった。

作業場で黙々と手作業に従事する。高温で煮立てた大鍋があるから冬場でも汗を流しながらの作業である。一歩外に出れば潮の香りが満ちているが、工房には四季の草木が放つ濃厚な香りが漂っている。どんな色に染まるのか、布を浸す瞬間の昂揚がよく伝わってくる。
そんな佐和のもとに日本の染め物を学びたいと一人の留学生がやって来る。まだ若いこの韓国女性・金華姫(キム・ファヒ)のひたむきさが良かった。
彼女は祖母手づくりのパッチワークの布を大事に持っていた。韓国古来の細やかな手作業で美しく仕上げられたポジャギという工芸は今では忘れられようとしている。日本の染めを活かした新しいポジャギを作りたいと金は留学中の限られた時間に労を惜しまず佐和の工房に通うようになる。
かつて、日本の女性と韓国の女性が自分たちの手で染め、縫って仕立て上げる布にどんな思いをこめてきたのか。金華姫の口ずさむ「針の行くところ 糸も行け」という古い童謡を耳にして佐和は新たな刺激を受けたのだった。 

 ああ、と佐和は言葉を呑み込む。ここにも「かさね」があるのだ。布をかさね、時間をかさね、家族への思いをかさねた素朴な手仕事が。


同じ年頃の金華姫の自立した姿を目にした明日香は目的もなく暮らしている今の生活に焦りを感じだす。彼とのデート中に起きた事故がきっかけになって彼女は自分の生き方を見つめなおす。(房総のアパートを去った彼への手紙がつたなくて切ない。メールではなく手紙なのが良かった)
佐和は草木染め作家として個展開催にこぎつける。そして自分の胸の奥に残ったままの過去にようやく結着をつける決意をするのだった。

夫の失踪理由は最後までわからない。読者によっては、現実的に家族を捨てるような男を自己中心的なだけだと許せないかもしれない。
しかし、その過去の「なぜ?どうして?」に苦しみながらも佐和は今を充実させている。染め物を通じて女の手が連綿と受け継いできた悠久の流れを感じながら。男のわがままを暴けば、恨みや怒りをエネルギーにしていくらでも別種のものに仕立てることが出来るだろう。だけど著者は小説的技巧を存分に凝らしながら、あえて「わからないもの」に無理やり意味づけしようとはしないのだ。

〈まあ、いいさ。あんたが色について考えているとき、自分じゃ気づかないだろうが、たくさんの言葉をまき散らしているからね。ぶつぶつぶつぶつ、とても強い、意志的な言葉をね。そういう言葉だけを大事にすればいい。言葉はいつか細い針に通るさ。あんたの心が通すはずだよ。色にもまれて、色と一体になって、布に巻かれて、繊維の中に潜り込んで、あんたの方こそ色のひとになるんだよ。そうすれば糸の永遠はつながっていくだろう。埋もれた場所にだって、糸は届くだろうさ〉


情報が溢れる現代は、言い換えればあらゆる機会に説明が氾濫した時代だとも言えると思う。それこそ志望理由から犯行動機まで、きちんと説明できなければそのこと自体が未熟な罪であるかのように批難を受ける。なんでも数値化してデータとグラフにしたがるのもそれと同じ病理なのにちがいなく、神経症的な説明責任の強迫観念が社会全体を手っとり早いマニュアルと公式定理への安易な依存に走らせている。
われわれは説明を強い、強いられてつい性急な回答を求めてしまうけれど、そういうもののうちに本当に実感が伴った言葉はどれだけあるだろう。そういう空疎な言葉を重ねることに慣れきって生きていくことが‘勝ち組’の一定理なら、そんなものはいらない。

大好きなシリトーの『土曜の夜と日曜の朝』にはこんな一節がある。
「ふん、お前のことがよくわかったよ」 そう言われた主人公の旋盤工・アーサーはこう応じる 「そうかい、お前はよっぽど頭がいいんだな。俺なんか自分で自分のことがさっぱりわからねえのに」

(ちょっと脱線したかもしれないが…) 世の中にはよくわからないことの方が多い。それを受け入れつつ現実には生きていくしかない。この作品はそんな当たり前のことを肉感として描いてみせる。もし、佐和の草木染めが夫を追いつめ諦めさせた世界のあり方への彼女流の無言の抗議だとしたなら、これは希望の物語でもあるのだ。
生きていくということは、生きた言葉に触れて自ら生きた言葉で話すことだ。佐和にとっては草花が醸す色もそういう貴重な言葉の一つ一つなのだ。そういうものを見つけるために生きていることを忘れがちな世の中だからこそ、こういう作品に出会うのが嬉しい。