奥泉光 / シューマンの指


10/17、日曜夜のNHKN響アワー。‘シューマン生誕200年特集「ジャーナリスト、シューマン」 ’を、「ひょっとしたら」の期待を持って見ていた。残念ながら予想は外れてそのまま番組終了と思いきや、最後に「来週はシューマン特集の第二回、ゲストに……」 


  キタキタキタ━━━゚+ヽ(≧▽≦)ノ+゚━━━ッ !!!
  そう来ると思った!そうでなくちゃ!


読むのを楽しみにしていた『シューマンの指』。本当は『アイルランド・ストーリーズ』のあとにと思っていたんだけど、予定変更。なんとしても今度の放送までには読み始めたい。先週は、そのために『千年の恋人たち』を頑張って読むのだ、という一週間だった。
このときのために、というのでもないが買っておいた(たまたまだけど)『モーストリー・クラシック9月号』にも目を通した。クララ・シューマンの美貌ぶりに悶死して(笑)、さあ準備は万端!


          


奥泉作品を読むのは今年三作目になる。



奥泉光 / シューマンの指 (314P) / 講談社・2010年(101023−1027) 】



・内容紹介
 高校3年の春、音大をめざす私は将来を嘱望されたピアニスト・永嶺修人と出会った。その後、修人は指に致命的な怪我を負い、ピアニストの道は絶たれたはずだった。三十年が過ぎ、私のもとに海外で修人がシューマンを弾いていたという噂が伝えられる。修人の指に、いったいなにが起きたのか。
生誕200周年、鮮やかな手さばきでシューマンに捧げる本格音楽ミステリ。


          


始めの方に国内のごく狭いコミュニティでしか通じなさそうな‘マルデ・アルゲリッチ’というギャグが出てきて、またあの奥泉節につきあわされるのかとちょっと腰が引けつつ、同時にその覚悟も固めたのだが、音大受験をめざす青春小説にシューマン論を重ねた物語は意外に真面目に進行していく。主人公が高校生なので、著者お得意のオヤジギャグもそんなには使えなかったのかもしれない(笑)

やはり音楽がテーマだった 『鳥類学者のファンタジア』 を読んで、この文体は何かに似ていると薄々感じていたのだが、今回ちょっとわかった気がするのは、奥泉氏の文章には「レコード芸術」等の音楽誌の解説調っぽいところがあるということ(‘レコ芸調’とでも言おうか)。欧州音楽を格調高く表現しようとする日本の評論家が、芸術家気取りの自己陶酔から、ちょっと無理してちょっと大仰に書いてしまう、あの感じ。つきつめていけば小林秀雄『モォツァルト』に行き着きそうな文体。その時代錯誤的な古くささを十分承知したうえで、(隠喩ではなく)明喩を多用してさらに諧謔性を高めてパスティッシュに論じてしまうのが特徴的。
もちろんそれが全てではないのだろうけど、再び音楽をモチーフにした今作で、まさにその汲めども尽きぬどうにも止まらない感じが全開になっていて、活字を追うのが愉しかった。

 決して短くない第二楽章は、鼻の奥を熱く潤ませ、背筋を痺れさせ、おおおう、おおおうと、セイウチのような驚嘆の叫びを頭の中に響かせ私の前で、ほとんど一瞬のうちに過ぎ去って、最後のE♭の和音、ベートーヴェン以来の伝統である、英雄の勝利の宣言である和音が高らかに打ち鳴らされた。そのときだ。ベランダ廊下の向こうに人影が現れたのは。


10/24の放送は期待どおりに愉快なものだった。シューマン特集というよりは奥泉氏の独演会みたいになっちゃってた。いとうせいこう氏と漫談ライブをやるくらいなのだから、よく喋る人なのだろうなとは思っていたけれど、これほどとは思わなかった。
熱弁また熱弁。司会者が口をはさむ間も与えずシューマンについて一方的に語りまくる奥泉教授。なるほどこの軽口なら「マルデ・アルゲリッチ」とか言いそうだわと、変なところで納得できたのだった(笑)
シューマンを語るその姿には芸術家風情も評論家風情も、ぜんぜんない。このお喋りな人がこの本の著者だということがにわかには信じられないのだが、嬉々としてシューマンを論ずる一気呵成の勢いには、今作にたびたび登場するまるで専門書のごとき楽曲解説部分の饒舌ぶりとたしかに同じ熱があるのだった。



「私」が通う都立の普通科高校に永嶺修人(まさと)が入学してきたことから物語は始まる。未来を嘱望される若き天才ピアニストの音楽思想に影響され翻弄されるばかりの「私」。その目は次第に修人を凡人の自分とは違う目眩くも魔的な存在として映すようになっていく。
しかし、肝心の修人の演奏場面はなかなか訪れない。彼は「音楽はすでにそこにあって、演奏はその音楽を台無しにしてしまう」と演奏に否定的な態度で、演奏機会は先延ばしされていく。

ピアニストであるにもかかわらず演奏を否定するということで当然グールドの話題も一例として持ち出されるのだが、では作曲芸術と演奏芸術は両立しないのかというような芸術論にまでは発展しない。演奏家でありながら演奏行為を否定してしまえば、自分の存在理由も表現活動も無意味なものになるのはおろか、過去に燦めくヴィルトゥオーゾたちの歴史まで否定することになるのではないかと思うのだが、そのあたりは上手く煙に巻かれてしまった感じ。



天才ピアニストの悲劇ということで思い出すのが中山可穂さんの 『ケッヘル』 で、あちらのモーツァルト弾きが「遠松健人」でこちらのシューマン弾きが「永嶺修人」(修=シュー、人=マン)。名前のつくりが似ていると感じたのは自分だけだろうか。どちらも高名なピアニストを母親に持ち、幼少から英才教育を受けて悲運をたどるのも同じ。音楽エリートの人生とは多かれ少なかれそういう運命なのかもしれないが、二つの小説に表れる彼らの境遇の一致も偶然だろうか。もしかしたら文学作家の音楽家という存在の儚さへの憧れ(あるいは嫉妬?)の共通の形なのかもしれないとも思ったりする。

もちろん、中山可穂奥泉光とではまるっきり世界観は違うのだけど、その違い方をモーツァルトシューマンの違いに擬えてみるのも面白い。たしかに奥泉光モーツァルト的ではない、という気はする。
なのに、奥泉光は『ケッヘル』と同じ轍を踏む。前半の音楽至上主義的展開から後半の安っぽい殺人ミステリへとドラマの主題は一転してしまうのだ。はたしてこの変奏なり転調は自由でファンタジックな「シューマン的」なものだっただろうか? それまで焦らしに焦らして積み上げられてきた修人のストイックな音楽聖人像が一気に引っ剥がされて、それこそ彼自身が嫌悪していた‘ペリシテ人(音楽俗人)’に一気に堕す終盤を、置き去りにされたような気分で読んだのだった。
なんだか作中のミステリよりも、なぜこんな展開にしてしまったのか、そちらの事情の方がミステリアスで気になって仕方がない。

 読譜を通じて作曲家と対話すること―。
 修人がやりたいと語ったことは、実のところ、一つの曲に取り組む演奏家なら誰でもがなす、あるいは、なすべき事柄だともいえる。そうした「対話」が直接に音となって表現されるのが、演奏というものの一つの理想であるだろう。毀誉褒貶はあるにせよ、コンサートホールから退いたグレン・グールドが追い求めたのはこの理想だったはずだ。


終盤の急展開には、その効果を目論んだというよりは、そうせざるをえなかったのではないか?という疑問を持った。 講談社100周年の記念出版事業(書き下ろし100冊)の一巻であることから枚数制限や締め切り等の(創作上の、ではなく)制作上の都合が先立って、必ずしも著者の思惑どおりの仕上がりとはならなかったのではないか。中盤までが素晴らしかっただけに、ついそう考えたくなる。
殺人事件が起きる「幻想曲の夜」まではどう見ても謎解きより音楽描写の方に力が注がれているし、それはシューマンが記した音符を文字で表そうとする著者の意気込みそのものであったはずだ。修人の指はシューマンの指が、彼の母親の指がそうだったように、天才ピアニストゆえの悲運に見舞われるはずではなかったのか。奥泉作品ならば、実は修人はレクター博士みたいに六本指だったのだみたいな強引なファンタジー展開でも納得させてくれるはずだとの強い期待が自分にはあったのだが……
もっとも不可解なのは繰り返し提示されていた「音楽はそこにあって、演奏は音楽を台無しにする」というテーゼにまったく沿わない形の、主題を忘れたカデンツァのまま最終楽章が終わってしまうことである。作曲と演奏の並立、両立は可能かという天才少年の問いがこの作品のテーマではなかったのか。(一応は「私」が試験でシューマンの課題曲を弾く場面で答が表されているように見えるけども、それでは自作自演めいて弱い)

本篇ラストにサルトルみたいな一行を見つけるに至っては、これが本当に奥泉氏が想定していたエンディングなのだろうかとの疑念が強まる。本当はもっと長い、上下巻になるような構想だったのではないか?。最後の破綻はトリックともいえないし、断じてシューマン的でも奥泉光的でもないような気がするのだ。

「音楽はそこにあって、演奏は音楽を台無しにする」をちょっと変えてみる―「音楽はそこにあって、文学は音楽を台無しにする」 絶対にそうではないことを自分は信じている。


番組の最後に奥泉さんは今興味を持っているのは後期のストラヴィンスキーだと語っていたので、次作もまた音楽物になるのかもしれない。
それはそれで楽しみではあるけれど、でもその前に、この『シューマンの指』改訂完全版を出してほしいぞ!