W.トレヴァー / 聖母の贈り物


アイルランド・ストーリーズ』は絶対読まなきゃ!と買いに行った書店の書棚で隣に並べられていたのがこの本。まずはこちらから。

素晴らしかった! これに続けて『青い野を歩く』を読めば、またちがった感想を持ちそうだ。



【 ウィリアム・トレヴァー / 聖母の贈り物 (314P) / 国書刊行会・2007年(101028−1103) 】
THE VIRGIN'S GIFT by William Trevor
訳:栩木伸明


・内容紹介
 普通の人々の人生におとずれる特別な一瞬、運命にあらがえない人々を照らす光―。“孤独を求めなさい”―聖母の言葉を信じてアイルランド全土を彷徨する男を描く表題作をはじめ、ある屋敷をめぐる驚異の年代記マティルダイングランド」、恋を失った女がイタリアの教会で出会う奇蹟の物語「雨上がり」など、圧倒的な描写力と抑制された語り口で、運命にあらがえない人々の姿を鮮やかに映し出す珠玉の短篇、全12篇収録。稀代のストーリーテラー、名匠トレヴァーの本邦初のベスト・コレクション。



          


ゲール語アイルランド公用語でありながら現在では北部の僻村にしか残っていないと聞いたことがある。もちろん、数世紀に渡ってアイルランド人から言語を奪ってきたのは(主に)イングランドであり、古代から受け継がれてきた一つの言語が消滅寸前の現在に至るまでにどれほどの弾圧と迫害があったのかについては、日本人には遠く想像が及びそうもない。
しかし一方で、アイルランドは詩と文学の、言葉の国でもある。古来不変の自然と精神風土に、強大な支配者の影が強烈なアイデンティティを植えつけてきたことが優れた作家を生み続ける一因にあるのかもしれない。

アイルランド・ストーリーズ』はアイルランドを舞台にした作品集のようだが、この『聖母の贈り物』は場所も年代もさまざまな物語のコレクションである。全十二篇、いずれ劣らぬ読み応えのある作品が並んでいて、まさにベストコレクションの貫禄がある。

中でも(自分がそれを期待して意識的に読んだからかもしれないが)アイルランドの歴史と宗教が背景にある作品が格別に印象深かった。
アイルランド便り〉は19世紀半ば、荘園屋敷で英国人地主に仕える執事と家庭教師の目を通して、大飢饉に見舞われた農民たちの窮乏ぶりをあぶり出す。ときはヴィクトリア朝の時代であって、英国貴族の典雅な暮らしぶりが綴られているのだが、その領地の一歩外には無惨な殺伐とした光景が広がっているはずなのである。(アイルランド史上最悪の被害をもたらしたジャガイモ飢饉について知らないで読むとたいした話には思われないかもしれない)
〈ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳〉はカトリック社会ではありえないはずの出生の秘密(不倫と中絶禁止)を背負って、家族から「神様に面倒を見てもらえ」と見捨てられる少年の話。同じ町の教会に名を刻まれているアングロ・アイリッシュの女性の死をめぐる謎が奥行きを与えて想像力をかき立てられた。
表題作〈聖母の贈り物〉は天啓によって修道士になり、アイルランド全土を放浪する男を描く。永らく岩と風の島(…アラン島?)に住み着いて天涯孤独に生きてきた彼が最後の啓示を受け、再び徒歩の旅に出る。島を離れてあてどなくさまよう彼がたどり着いたのは…


先祖のなかには木を植えて大修道院ヶ森をつくった者もあれば、庭園の設計をした者たちもいた。ジョナサン・スウィフトもここへ来たのだよ、知っていたかね?アーシュキン君。かの癇癪持ちのクライストチャーチ主席司祭殿が、この目の前の芝生と低木の植え込みをどう配置するかに、知恵を貸したんだ。
                    ― 〈アイルランド便り〉より

プロテスタントの家庭で育ったということが、この作家に祖国への冷静な(しかし絶対に冷徹ではない)観察眼を与えたのかもしれない。
たとえば〈アイルランド便り〉では、鷹揚で実に皮肉っぽい執事を登場させて、どっちつかずの態度で地主と小作農の両方を語らせる。この執事はプロテスタントであるがゆえに英国人に雇われているのだが、彼は主人も英国も嫌っている。かといって同胞のカトリックの農民たちの窮状にこれっぽちの同情も見せない。彼らの悲惨な状況を暗示するおそろしい噂話にも頑として耳を貸そうとしないのである。
彼は同じ使用人で屋敷の子供たちの教育係としてやってきたイングランド人女性に関心を寄せていて、それはどうやら恋心らしいと想像はつくのだが、そのことには一行も触れられていない。当時はイングランド人とアイルランド人の結婚(同化)は認められておらず、その禁を犯せば死刑という時代だったらしい。
エルサレムに死す〉では長年の念願を叶えて聖地を訪れた兄弟に母親の訃報が届く。巡礼と母の死が天秤にかけられて兄弟は対立するのだが、厳格なカトリック信仰を揶揄するような調子もうかがえる。

おそらく著者が一方的に支配され搾取される側(カトリック)だったのなら、このような作品は書かれなかったのではないだろうか。アイリッシュの特質の一つ、反骨と激情家の側面がもっと強く前面に出たのではないか。同じ土地の同じ民族でありながら立場(宗教)によってまったく異なる運命に見舞われてきたことを冷静に物語るのは、深い傷を負った被害者には不可能だと思われる。
どちらが正しい誤っているというのではないのだ。善悪も白黒もつけがたい、自分が愛するものばかりではなく憎むものもこの地に同時に存在していることを受け入れていかなければならない。幾層にも重なった不条理にさらされて生きることはアイルランド島の宿命なのだ。



そうした複雑な精神作用をわかりやすく現代的な不倫関係に投影したのが〈イエスタデイの恋人たち〉で、これはシリトー〈漁船の絵〉を思わせる大人の恋愛作品。想像どおりに現実のぶ厚い壁の前に彼らはあえなく破れ去るのだが、なにかしみじみと、ほのぼのとした余韻があるのは、著者が当事者二人の気恥ずかしくなるような恋愛への傾倒をみずみずしく描いていて、その愚かしさを少しも断罪しようとはしないからである。

この本の中でもっともボリュームがあり大河ドラマのような趣きがある〈マティルダイングランド〉も、英国の階級制度をもとにした作品。没落した荘園主の屋敷の荒廃と再生に主人公マティルダの家族と二つの大戦を重ねた三部仕立ての傑作で、詩情豊かなノスタルジックな描写と背景にある現実の冷たさを同時に味わわせられる。ことに主人公が少女時代の経験を伝える第一部‘テニスコート’では、自分にはまったく縁遠いはずの英国の一時代の光景と人間模様がまざまざと目に浮かんできて圧倒された。
民族、宗教、階級…… 目には見えない壁が厳然と存在していて、人々はしたたかに生きることを強いられる。そのさまざまな生きざまを「あらがえない運命」と簡単に一言でまとめてしまうのは、あまりに日本的な短絡という気がする。


わたしは過去の記憶を愛しています、と言いたかった。ミセス・アッシュバートンが話してくれた、二つの戦争のうちの最初のほうが始まる前のチャラコムの記憶を愛しています、と言いたかった。それから、二つめの戦争が始まる前のわたし自身の家族の記憶のことも愛しているのです、と言いたかった。目の前の三人にこれらすべてをぶちまけることで、ツイードのスーツなんか着てのこのこやってきて、チャラコム屋敷にぞっこん惚れこんじまって、なんていうセリフを吐くのがどれほど愚かなことか教えてやりたかった。
                    ―〈マティルダイングランド〉より

全篇を通して感じたのは女性の心理描写が上手いということで、それこそ少女マティルダから老女ミセス・ウィッシュバートンまで、自在な筆致。登場人物の年齢層は高めで、信心深い高齢者の存在感に特に威厳があって味わい深い。まったく説明的記述をせずとも情景描写の積み重ねだけでいつのまにか読者にその人となりを伝えてしまうのは著者の熟練技だろうか。輪郭に肉がつき、肌の、目の、髪の色が見えてきて、ついには彼や彼女らの声音やため息までがページから聞こえてきそうである。夢の中で神の思し召しを聞いて旅に出るミホールが荒涼の大地を往く姿がくっきりと、立体感のある漂泊の風景として迫ってくるのだ。
そして各話ともに、物語を締める最後の一段落が思慮深く、格調高い文章で飾られていて、文句なく素晴らしい。これは優れた短篇小説の必須条件の一つではあるけれど、それまでの何百行を読んできて、その最後の数行に味わう満足感は、最近の小説ではめったに味わえない種類のものだ。

翻訳されたものを読むしかないのだから、これらの作品の特長がトレヴァーという作家の個性なのか、あるいはアイルランド人一般の民族的な言語能力なのか、またはただの翻訳結果にすぎないのか、それは知りようもない。しかし、深い人間把握と表現は彼の経験と洞察の確かさによるものだろう。それはもちろん祖国アイルランドの社会環境が自然と育てたものであることは間違いない。


読み始めて第二篇〈こわれた家庭〉の老女像が素晴らしかったので、てっきり翻訳者も女性なのだろうと思っていたのだが、男性だった。丁寧で適度に現代的で、翻訳も素晴らしい。



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《メモ:アラン島行きたい!》

  • アラン島はもともと石灰岩の一枚岩の島であって土はない。先住民が風に運ばれてきて岩場にたまった砂をひとすくいずつ集めては表面に薄い土壌をつくった。
  • アラン・セーターは日本でも知られているが、本来はアラン諸島の女たちが漁民の夫のために手縫いした一点もののセーター(フィッシャーマンズ・セーター)。船が遭難して遺体が遥かスペインやフランスの海岸に漂着することも珍しくなかったため、男たちを見分けられるように妻たちがそれぞれ模様や編み目を変えるなどの工夫をするのだという。