宮下奈都 / 田舎の紳士服店のモデルの妻


クロマニヨンズ・ライブの11/21。待ち合わせ時間よりだいぶ早かったので、久しぶりに駅ビルの書店に寄った。お目当ての一冊を見つけて、それからめぼしい本を物色した。今日はクロマニヨンズの日だから宮下奈都さんの新刊があったりして…と思いながら「ま」行の棚を見ていくと、本当にあったのだった。


それから、この本を読み始めたときに 「WEB本の雑誌」作家の読書道 に宮下さんが登場! 幼少期から現在までに読んだすごい数の書名を挙げてご自身の読書体験を語っている中で、短いながら 開高健の「闇」三部作 にも触れていたりして(意外!)、またまた嬉しくなった。


で、自分だけの嬉しい「宮下奈都情報」があるので、そのこともこの際書いておこう。
昨年、『よろこびの歌』刊行時に出版元の実業之日本社サイトで登場人物への応援メッセージを募集していて、自分も応募してみた。強引にハイロウズと結びつけた妄想暴走気味の、送信ボタンをクリックしてしまってから「やっちまった〜」な冷や汗ものの文章を送ってしまった。
どうかご本人の目に触れませんようにと思っていたのに、後日メールが届いた。実業之日本社の担当者さんから、件名に「宮下奈都さんからのお返事です」とあるではないか……!
そのメールはプリントアウトして、本の見返しにはさんである。家にあるのは世界に一冊だけの『よろこびの歌』なのである。



【 宮下奈都 / 田舎の紳士服店のモデルの妻 (253P) / 文藝春秋・2010年(101126−1129)】



・内容紹介
 ぴかぴかの夫とかわいい息子と何不自由なく暮らす30歳の梨々子にふってわいた夫のUターン話。実家との距離感、ご近所付き合い、子育て、夫の鬱。このまま年を取っていくのかしらと迷い、あちらでつまずきこちらで壁にぶつかる1人の女性の10年間を、定点観測のようにつぶさに追いかける等身大の物語。気づけば誰もが自分を重ねてしまうような清々しい“成長しない成長小説”。(文春HPより)


          


このタイトル。田舎の紳士服店のモデルの妻。ATOKではご丁寧にも校正支援機能が働いて、《「の」の連続》だと注意してくる。
これまでとはちょっと雰囲気が違うタイトルの主人公は、東京から夫の故郷に引っ越してきた竜胆(りんどう)家の主婦・梨々子。不慣れな地方都市での生活にとまどい、二人の息子の成長に悩む三十代の彼女の姿を中心に、十年間の家族の風景の変化を綴っていく。
夫には結婚当時の面影は失せ、子供たちはどうしてか二人とも無口な内向的な性格に育っている。ときどき連絡がある東京の知人に負い目を感じたり、ときには嫉妬心さえ抱いてしまう自分を恥じながらも、梨々子はこんなはずじゃなかったのにと素直に環境の変化を受け容れられないでいた。

 どまんなかだったことは一度もない。それだけはたしかだった。いつもいつも、思っていたところをかすって、少しずれていて、なんだか違う、望んだものはこれじゃない、と思いながら、ではどういうものを望んでいたのか、そもそも望んでいたものなどあったのかと心許なくなってしまう。


たぶん、多かれ少なかれ、結婚して数年が経って子供もある程度成長した家庭の奥さんはこんなことを思うのだろうなと、男の自分は読みながら想像するしかないのだが、それにしても梨々子さんは自意識過剰だ。
東京育ちでずっと都会暮らしをしてきた三十代はじめの若い女性が、夫の都合とはいえ、何かと不便な田舎暮らしを余儀なくされる。それは不本意なことではあるかもしれない。彼女は必ず東京の誰か、都会の何かと自分の境遇を比較しては、幸不幸か優劣か、損得かの判断をしてしまう。そしてその自分の判断基準が曖昧なものであることを充分に自覚的でもある。
その辺りは宮下さんのことだから、とても丁寧な日本語で、ときにユーモラスにも書かれているのだが、何かがなおざりになったままなのではないかと不安になる。長男が運動会の徒競走で走らなかったり、次男が給食に手をつけていなかったり、健康のすぐれない夫が弱気になったりするのに、梨々子は「母親として」「妻として」どういう態度を取るべきかの自問が常に先立つ。
胸に巣くうもやもやを書くのも宮下さんは上手いが、今作は無意識を意識化(文章化)しようとしすぎて彼女を小利口な女にしてしまっているような気もした。



でも、この作品はそういう作品なのだろう。主婦というのは、男が思っている以上にいろいろなことで思い悩んでいるものなのかもしれない。日常生活の思考をすごく細やかに書いてあるから、主人公とは反対側にいる自分には彼女の自意識が余計に疎ましく感じられたのかもしれない。
これまで宮下さんが書いてきたのは多くがまだ「これから」がある主人公たちだった。彼女らには光差す道が先にあった。でも、田舎の主婦にすぎない梨々子には何もないように見える。あると思っていたものは幻想だった。信じていたものがまぼろしだった。青春は色褪せるばかりで、見回せば自分が思い描いたのとはずいぶん違う現実だ。三十代というのは、劣化して退化して表面がぽろぽろとはがれだす年代なのかもしれない。
でも、本当にそうか。そんなものなのか。彼女は自分で自分に足枷をつけてしまっているのではないか。
十年も田舎に住めばいい加減その水にも慣れてくるはず、と言ってしまえば身も蓋もないが、年を重ねて彼女の心のささくれは少しずつ取れていく。なんだかやきもきさせた梨々子はニュートラルな状態に近づいていくように見えるが、それはずいぶん遠回りして廻り道したうえでのことだった。

梨々子は筒石さんの血が通ったような作品ひとつひとつに胸を打たれ、見くびっていたことを深く恥じた。相手を正当に評価するためには、こちらにも度量が必要だった。どうせこの程度のものだろうと思ってしまうのは、相手に対する敬意が足りないだけでなく、自分の持つ敬意の総量が小さい証拠だと思う。


妻、母親、一個人。都会、田舎。いる、いらない。平凡、非凡。現実の毎日は文字で区別できないものを処理しながら過ぎていく。
読んでいてつくづく思うのだけど、三十代、四十代というのは、本当に面倒くさい。職場で家庭で大黒柱の看板を掲げていても、ひとたび肩書きを外してしまうと、正体は実に頼りのないものだったりする。
少々のことで動じない自分を、経験値が上がって大人になったのだと思っていても、実はただ感受性が衰えて怠慢になっただけなのではないのかと疑うことがある。ただごまかしや言い訳が上手になっているだけではないのかと。中盤以降はそういう同年代の心象風景に親近感がわいてきて、梨々子の変化をじっくり見守ることができた。
小説的には「妻として、女として」みたいな展開にする方がよっぽど楽だろう。明確な境界線を引いて区切ってしまえば、もっと起伏のあるストーリーに出来たはずだ。でも、宮下さんは梨々子をよろめかせても、楽はさせなかった。
作家は同世代、同年代の代表であってほしいと常々思っているけれど、宮下奈都さんは自分の心の代表の一人だ。