宮下奈都 / スコーレ№4


『田舎の紳士服店のモデルの妻』に続いてこの本を読むつもりだったのに、ちょっとした手違いがあって、なぜかブラッドベリ華氏451』を読んでいたという……(苦笑)


【 宮下奈都 / スコーレ№4 (316P) / 光文社文庫・2009年(101203−1206)】



・内容紹介
 自由奔放な妹・七葉に比べて自分は平凡だと思っている女の子・津川麻子。そんな彼女も、中学、高校、大学、就職を通して4つのスコーレ(学校)と出会い、少女から女性へと変わっていく。そして、彼女が遅まきながらやっと気づいた自分のいちばん大切なものとは…。ひとりの女性が悩み苦しみながらも成長する姿を淡く切なく美しく描きあげた傑作。
※単行本は2007年刊


          


以前から良いと噂には聞いていたけれど、はじめの10Pぐらいで、あぁ、やっぱりこれは良いなと安心する。読みやすいとか面白いとかいうのではなく、読み心地が良い。ページを繰って目に入ってくる整った文字の列なりが、漢字と平仮名の混ざりぐあいが、カタカナの少なさが、古風な家に育った主人公の人物像とぴたりフィットしている。彼女が育った古道具屋さんの薄暗い店内がぼんやりとページの向こうに透けてきて、一人称の「私」の落ち着いた語り声が聞こえてきそうな誌面。だから、読んでいるというよりは耳を傾けているような感じで、会話中に自然とそうなるように、少しだけ自分の体温が上がっているのがわかる。 
いつもながら端正な文章は、これそのまま国語の教科書に使えそうとさえ思う。
濁音を避けて平仮名で記される擬音は宮下さんが多用する得意技だが、「ぷすぷす」と膨らめた頬から「しゅーっと」空気が抜ける様子とか、同級生がお熱の男の子を見た帰りに自転車をこぎながら耳にする蝉の声が「しゃわーと」聞こえたりする場面は、自分にもたしかにそう感じた記憶があって、なんだかくすぐったい気分にさせられる。
文体が主人公を創造する‘適文適人’とでもいうか、文章濃度と登場人物の温度が近いので、主人公が葛藤の末にも自分のいるべきところを、愛するものをちゃんと見つけられることが、まったく自然に受け入れられるのだ。

私も品物に目を戻す。すると、父に素晴らしさを語られている品物に光があたっているような気がするのだ。なんてことないように見えていた文様の一刷けも、いびつなくらいの輪郭も、急に輝きを帯びてくる。遠い昔に生まれ、人の手を伝ってここまでたどりつき、やっとめぐりあえた品物が、ほんの一瞬、私に向かって心を開く。


文章の抑制されたリズムは最後まで一拍も乱れない。急がなくていい、抑えて、抑えて。でも、つい駆け出したくなるのを無理に押し止どめている感じはない。等速、等温で、でもリズムマシンではなく生のドラムの、呼吸に近い揺れのあるビート感。どこかで息切れするか失速するかと思えばますますそれは確信を強めて刻まれていき、そのまま最後まで行ってしまった。
ジャンルもテーマも別物なのに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだときと同じような静かな興奮があった。もちろんまったく熱狂の質はちがうのだけど、(失礼かもしれないが)まともな神経の人がこんなものを書けるだろうかと驚嘆した。
何かに憑かれて一気呵成に書き上げた熱とか勢いはない(そんな作品なのではない)。けれど、推敲に推敲を重ねて時間をかけて熟成させたようでもない。どういう精神状態で臨めばこんな作品を書けるのだろう。



もうはじめからそこにあったのだとしか思えない。書き出したときには著者の頭の中には「津川麻子」と彼女の一家が完全に息づいて暮らしていて、あとは彼女に語らせるだけだったのではないだろうか。
中学生時代から社会人として自立するまでを四つの章に区切ったこの本は、どこを開いても無駄な一文、無駄な一言はない。厳格な祖母と「目利き」な両親に育てられた長女の十数年を貫く毅然として整然としたたたずまいは逆に無機質に紙一重とすら思えるぐらいだ。
さすがにこれを読んでしまうと、先の『田舎の紳士服店の〜』の梨々子の場合は、ここまでためらいなく滑らかには書けなかったのではないかという感じがしてしまう(その停滞を書いてあるのだとも言えるが)。
「これは良い」というのははじめの印象で、読後はそれどころじゃなかった。「すげぇな!」実家の二段ベッドで三姉妹が語らう最後の場面を読み終えて、小さくガッツポーズしちゃったぐらいだ。

しあわせのいろいろな種類について私は思いをめぐらせる。好ましくないしあわせというのも、きっとこの世にはあるのだ。しくみのようなものの存在がおぼろげながら意識できる。この世が回るしくみとか、人がしあわせになるしくみとか。


誰が読んでも感心する素晴らしい作品だと思うので、自分は少しちがうまとめをしようと思う。
田舎暮らしがテーマの『田舎の紳士服店の〜』でも他の作品でもそうなのだが、宮下奈都さんの作品には「エコ」という言葉は(たぶん一度も)出てこない。そこにはいつも質素で控えめな、いかにも「エコ的」な生活が描かれてはいるのに。
彼女の作品には、どんな人物にして、その登場人物にどんな選択をさせるかというところに主題に通じる共通項があると思うのだが、彼女らは自然と何かに導かれるように一歩を踏み出す。その「何か」がめぐってくるのだって、きっと彼女らのかけがえのない一部なのだといつも納得させられる。
現代は情報飽和時代ではあるけれど、実はちっぽけな自分に許される選択肢なんてそれほど多くはない。演出過剰かノンギミックか、振り幅の大きい世の中にあっては「シンプルな」「身の丈にあった」「等身大の」「普通の」といった形容詞すら何やら押しつけがましい断定の響きをはらんで迫ってくる。
けして堅実とか清廉なばかりでもない宮下作品の主人公が清々しく映るのは、満腹と退廃の末に「エコ」を叫ぶ倒錯に慣れきったわれわれに、本当に選ぶべきものは身近にあることをさりげなく示しているからだ。自分の中に準備されているものを手探りする姿に共鳴するからだ。
そして、そういう主人公に注ぐ目線をそのまま自分に向けてみてもいいのだと、気づかせてくれる。不感症を刺激する声高なキャッチコピーやスローガンなんかに頼らなくても、それでいいと思わせてくれるところが‘宮下マジック’なのである。
(宮下マジック、これで何度めだろう。毎回同じようなことを書いてる気がするけど……キャッチに頼っているのは自分だろうか?)


この文庫版の帯には「かつて少女だったあなたへ / 今まさに少女のあなたにも」とある。もう一つ、「かつて厚顔の微・少年だったおまえに」と加えてもいいだろ?(←誰にいってんだよ?……‘厚顔の微少年’は開高健から盗む)。


『遠くの声に耳を澄まして』のときにも書いたけど、宮下作品の主人公ベスト10みたいなのをいつかやってみたい。今作の麻子は「スコーレNo.1」から「No.4」の四つに分けてエントリー。No.1でサッカー部の中原君が水色に見える麻子の感性、いいなぁ…(王国の最底辺のサッカー部員だった頃、自分は断じて水色などではなかった。どうせまだらな茶褐色だったよ) 彼女は‘土鍋で飯を炊く女’と激戦必至だが、ダークホースはいっぱいいるぞ!