梨木香歩 / ピスタチオ


梨木香歩 / ピスタチオ (290P) / 筑摩書房・2010年 (101229-110103) 】



・内容紹介
 緑溢れる武蔵野に老いた犬と住むライター「棚」にアフリカ取材の話が来る。何者かに導かれている予感。奇妙な符合。すでに動き始めているこの流れに乗るしかない、彼女は覚悟を決めた。そしてアフリカで彼女が見つけたものは…… 物語創生の物語。


          


「かつて木は、人だったことがあるのだろうか」 ― という印象的な一文が最後の方にある。人間が一人生まれるとき、どこかで鳥も一羽生まれていて、その人と鳥は一対の双子である、という魅力的な挿話もある。ただ食物連鎖とか自然の再生と循環のシステムというのではなく、もっと深くにある「生命(いのち)のつながり」を感じさせてくれる、梨木さんらしい物語。
年末に読んだ上田早夕里『華竜の宮』では人と魚が双子として生まれてくる未来のSF世界が展開されていた。まったく接点のなさそうな異質の二作なのに、彼女たちがもともと備えているのは同じセンサーなのかもしれない。
読みながらこれまでの梨木作品のイメージが甦ってきたのだが、もう一冊自分が思い出したのは 『ウィ・ラ・モラ オオカミ犬ウルフィーとの旅路』 だった。アフリカの大地に暮らす部族民とカナダ−アラスカの先住民の暮らしに根づいた伝統呪術、精霊信仰。都会の人間が奇異の目で見がちな‘スピリチュアル’な彼らの営みは、もともとは人間誰しもが持っていたものではないのか。
まず自分という個体も自然の一部なのだという実感に立てるかどうか。それがここ数年来の自分の読書で著者に信頼を置くポイントの一つになってきたように思う。

 自分がこんな気持ちになるということは、誰かクライアントがいるのだ。誰かが自分に作品を発注しているのだ。誰かが、物語を必要としているのだ。自分はその「誰か」に応える仕事ができるのだろうか。けれど、と棚は爪切りをしまいつつ、諦めに似た確信を持つ。もう動いているのだ、物語は。


主人公は三十代後半の、ペンネーム「棚」という女性ライター。出版編集部に勤務していたこともあるが自分の書きたい物を書くために独立して十年以上になる。その間、アフリカ滞在も経験していた。最近、ずっと一緒に暮らしてきた愛犬の体調が思わしくなく、その介護に追われる日々が続いていた。
愛犬の病状と「棚」の日常生活がつぶさに記録されていて、主人公の人となりが伝えられている。毎日の愛犬との散歩に通う公園のカモの群れへの視線。前線の接近に異常に反応する彼女の体調。犬の体内にできた原因不明の腫瘍。喫茶店主との会話。無駄のないクールな質感の梨木さんの文体も、主人公の人物像を決定していく。後半はずっとアフリカ・ウガンダでの取材旅行場面に転じるのだが、前半に書かれている「棚」の私生活の描写が的確なので、観光者目線ではなく彼女の目を通したアフリカ像を違和感なく読むことができる。内戦と虐殺と貧困。それぐらいしか思い浮かばないウガンダという遠い国へと入っていけるのも、主人公の目線が読む側にわかっているからだろう。



アフリカ原住民の呪術への関心は、アフリカと関わりのある知人の死がきっかけだった。依頼があっての日本人向け観光リサーチなのだが、「棚」にはウガンダを訪れるよう仕組まれているように感じていた。
現地で憑依霊を取り出す儀式を目にした彼女はいよいよ自分が物語の一部として取り込まれている確信を強めていく。同行することになったウガンダ人女性の悲惨な境遇に立ち会って彼女の中で一気に覚醒してくるものがあるのだった。
棚の東京での暮らしとアフリカの旅の間に感じ続けていたもやもやした感覚が、すべてつながっていく構成が見事!冒頭のターナーの絵の印象が「そこに行くんだ…」と感嘆。国際社会に加わるために表向きは呪術医療など行っていないとするウガンダ政府の態度や内戦とそれに続く国土の荒廃などの現地情勢も過不足なく取り入れられていて、日本とアフリカの対比でバランスを崩さないのも良い。

 死者には、それを抱いて眠るための物語が必要 ―死者は、物語を抱いて眠る― その言葉が、棚の中のどこかを稼働させようとしている。その「どこか」は、ダンデュバラのところで、一度はっきりと覚醒した「どこか」だった。だが、それはここ一、二年ずっと、いつも静かに棚に働きかけ、棚が意識していた「どこか」ではなかったか。


後半は原始的な精霊信仰が大きなモチーフとして扱われてはいるけど、べつにこれは霊感の強い人間の話でも、精神世界の深淵をのぞきこんだ抽象的な体験談なのでもない。
勝つか、負けるか。豊かか、幸せか。そういう現代的な価値基準とは180度ちがうところを目指しているようで、実は根源的には同じ欲望に進んでいたのではないか。梨木さんはそれを物語への欲求と結びつける。
誰もが自分だけの物語を読みたがっている。自分で書こうともしないで、ただ語られたがっている。それが現代人全般のエゴイズムの一側面なのかもしれない。
一晩中照明された池の水鳥が夜行性になったり渡りの時機を逸したりしている。人間の営みが身近な野生動物の生態を変えている。その程度のほんの少しの想像力さえ持たないのに、自分の物語は欲しがる。
「棚」は窮極的にはただ一人のクライアントのために一篇の物語を書きたいと望むライターだった。その寓話的な作中作‘ピスタチオ’、これも良かった。


一般的にはそのような評価はされない作品かもしれないけれど、自分にとってはとても刺激的な本だった。
自分はいつか、どんな木になるのだろう。自分の兄弟鳥は今どこの空を舞っているのだろう…… そんな想像力のセンサーを錆びつかせないためにも、梨木香歩さんを読む。

今年もこういう本に一冊でも多く巡り逢えますように!