梨木香歩 / 渡りの足跡


梨木香歩 / 渡りの足跡 (186P) / 新潮社・2010年 4月 (110104-0107) 】



・内容紹介(新潮社HPより)
 近所の池や川に飛来するカモたちも、命がけで渡りをし、奇跡的に辿り着いている。住み慣れた場所を離れる決意をするときのエネルギーは、どこから湧き起こってくるのか。渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と関わりながら自分の進路を切り拓いてゆく、旅の物語の集合体。その道筋を観察し、記録することから始まった最新エッセイ。


          


『ピスタチオ』の中に、主人公が毎日公園で見かけるカモたちの様子を気にかける場面が何度か出てくる。身近な生き物への目線で彼女の自然に対する態度はよく伝わってくるのだけれど、その源はこのエッセイにたっぷり書かれているのだった。
内面をじっと見つめて、少ない言葉で、しかし、それしかない言葉を登場人物に語らせる小説家・梨木香歩とは別の梨木さんがここにいる。意外といっては失礼かもしれないけど、読んでいてとても楽しかった。
それはもちろん数千キロを旅して日本に飛来する「渡り鳥」の生態の神秘に依るところが大きいのだけれど、自分には‘あの’梨木香歩さんがここまでして鳥を追っているのかという驚きも半分あったのだ。わざわざ厳寒の知床や日本海側に赴き、レンタカーにスコープや三脚を積み込んでは雪原を野鳥観察に行く。果てにはウラジオストックまで行ってしまう。この人はそんなことをやっているのか…と思いつつ読んでいくと、その小説からはちょっと想像できない、生き生きとした著者の姿が浮かんでくるのだった。文章も明らかに‘小説モード’と違っているのだ。

ミコアイサはその後、小グループを河口近くで見かけたが、やはり一羽だけでいる方が貴い感じがして、思わず「こんなところにおでましになられたのですか」と遠くから声をかけたくなる。何というか、ヒマラヤの雪男をロシアの貴婦人に仕立てたような、そんな異形性と高貴さを持った不思議な鳥である。皆さん遠いところをよくここまで、定住の管理人、カルガモ、苦労もありましょうが、皆さんをよくおもてなしして、と心の中でエールを送る。


遠くから双眼鏡やバードスコープのレンズ越しに「渡り」に発つ鳥たちを観察する。一挙一動を見逃すまいと息を殺している。知らず知らず彼女は風の、雪の中の鳥に語りかけている。鳥の種や科目ではなく、あくまでそこにいる一羽一羽の個体に向けて語りかける。地図に記された飛行経路と日時の記録を見つめながら、いつしか著者の目は空からの鳥目線に変わっていく。数十日間飛び続けていよいよ北の目的地が迫ってくるあたりでは完全に鳥瞰図が見えている。
ここで暮らそうと思えば暮らしていけるのに、どうして何千キロも離れた土地に移動するのか。何が壮大な「渡り」という行動へと駆り立てるのか。そうして、なぜまたぴたりこの場所に戻ってこれるのか。鳥類学者でなくともその不思議な習性を知れば、彼らのルートを追跡してみたくなるのもわかる。鳥たちがけして語らないその冒険譚を聞きたくなるのもわかる。
そんな鳥の「渡り」を人間たちの「渡り」―太平洋戦争時に強制収容所に入れられた日系アメリカ人、知床開拓団など― にリンクさせていくあたり、これは鳥にも鳥の専門家にはできない、さすがの小説家の技なのだった。

 知床で出会った、新潟で出会った、諏訪湖で、琵琶湖で出会った、あなたがたが毎年早春、遥か彼方へ帰って行く、その翼が目指している場所の一つはここであったのか、とあらためて感慨を深くする。こんな荒々しくもの寂しく、また潔く清々しい、鉛色をした北の海であったのか。


創作を書いている人がノンフィクションを書くのはむずかしい。どうしても執筆者の作家性という主観が表立ってしまうからだ。
だが、この本はフィクション−ノンフィクションの垣根などまったく感じさせない。自然の摂理に対して書き手の人間側に迷いがないのだ。一個の人間を思い切り鳥にぶつけてみる。鳥に向かうことで、むしろ自分の思考を全開に解放できている、そういう爽快感があって、それは梨木さんの小説作品で味わうのとはちょっとちがう種類の感動があるのだった。
消耗して諏訪湖で溺れていたところを人間に保護され、以後毎年姿を見せるようになった「グル」というオオワシも、衛星追跡調査によって南半球から北半球の一万キロを無着陸で移動したことが明らかになったシギも、彼ら鳥にしてみれば、それは人間が想像するような苦業なのではなく、特別な覚悟を必要とするわけでもなく、ただ本能に従った行動にすぎないのかもしれない。冬の日本海オホーツク海を越えるのだから楽なわけはないと思うのだが、そんな人間の尺度や感情で測れるものではないのだ。
でも、人間にはそうするしかできないが、そうすることができるのも人間だ。強風をついて羽ばたくことを止めない鳥の旅に思いを馳せるには、潔く自分が鳥と同等の一個の生物であることを認めねばならないのだろう。
汚染された川にそうと知らずやって来る鳥たちに「そこの水を飲んではだめ!魚を食べちゃいけない!」と伝えられないのはもどかしい。だったら汚すな。自然な感情として、せめてそう考えることは人間という生物に出来うる最小限のことなのかもしれない。そして、けして語られない渡り鳥の物語を(及ばないと知りつつも)想像するのは作家という人間の自然な習性でもあるのだろう。



読み終えて、久しぶりにDVD『WATARIDORI』を観た(2001年フランス映画)。やっぱりすべてが名シーンだ! (でも特典ディスクのメイキング映像を観てしまったので、驚異の映像の感動も半減してしまった…)


          
     

それでも、文章や(あの手この手の涙ぐましい努力で撮る)映像によって自分たちとは別の生きものの生命を伝える作業をする人間というのも、なかなか大したものだと思う。


自分の住む地域でもVの字編隊のガンの群れがこれから二月頃まで見られる。毎年見ているのに、あれはカモではなくて多分ガン、ぐらいの知識しかないのが本当に情けない。(本書では梨木さんて鳥博士?という勢いで鳥の名前が次々と出てくる。各章末には著者自身による解説付き。鳥図鑑の説明文とは違って、この文章も楽しい)
決まって夕暮れ時に海の方から来て、人が歩いていても押し戻されそうな強い西風に逆らい北西方面に飛んでいく。後から来た群れが合流するとV形がどんどん大きくなっていく。けっこう低い所を飛んでいて、頭上を通りすぎる一羽一羽の顔もはっきり見えるぐらいだ。
いつもこの光景に出会うときまって「あいつらどこまで行くんだろう」と思うし「カメラを持っていれば撮るのに」と思う。明らかに羽ばたきが弱くて群れから遅れている鳥も必ず何羽かいて、切なくなるのもいつものことだ。


     



新年早々、今度生まれ変わったら俺は鳥だ!なんて思っている。 (あれ、オオカミじゃないのか?)
次も梨木香歩さん絡みの鳥本だ。